小林悠、39歳の誕生日に引退表明 理由は「自分自身のことを自分が信じ切れなくなった」、J1通算144得点の歩み

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川崎フロンターレのFW小林悠(39)が2026年9月23日、39歳の誕生日に会見を開き、2027年1月1日で現役を引退すると表明した。決め手は、自分自身を信じ切れなくなったこと。川崎一筋17年目で積み上げたJ1通算405試合144得点は、J1歴代7位の数字だ。
誕生日の午前11時、背番号と同じ時刻に開いた会見
川崎フロンターレは2026年9月23日、FW小林悠が2027年1月1日で現役を引退すると発表した。1987年9月23日生まれの小林は、この日がちょうど39歳の誕生日。会見は川崎市内のクラブハウスで、背番号11にちなんだ午前11時に始まり、クラブ公式YouTubeチャンネルでもライブ配信された。
引退日の1月1日は、MUFGスタジアム(国立競技場)で天皇杯決勝が行われる日にあたる。川崎は天皇杯で勝ち残っており(3回戦は10月7日)、決勝まで進めばその舞台が現役最後の試合になる。J1リーグは2026/27シーズンから8月に開幕して翌年6月に終わる日程へ移っており、小林はリーグ戦をシーズンの最後まで戦わず、12月いっぱいで区切りをつける。
会見で語った一番の決め手は、「自分自身のことを自分が信じ切れなくなってしまった」ことだった。小林は、気持ちでプレーする部分が大きかったからこそ、それができないなら選手を退くべきだと考えたと説明している。信じ切れなくなった直接の原因として挙げたのは、ここ数年で増えた筋肉系のけがだ。年齢を重ねて出場機会が減るなか、けがとリハビリを繰り返すうちに、復帰した自分がゴールを決めているという確かな自信が少しずつ消えていったという。
FWとしての線引きも明かした。プロで活躍するようになって以降、シーズンを通して1点も取れなければFWとしては辞めるべきだと、ずっと考えてきたという。
発表をこの日にした理由は2つある。長く応援してきたサポーターに早い時期に知らせ、引退までのプレーを見てもらうこと。そして39歳の誕生日という区切りの良さだった。
年度別に見るJ1通算144得点、17年の積み重ね
東京都町田市出身。麻布大学附属渕野辺高校から拓殖大学へ進み、在学中の2008年7月に特別指定選手としてJ2水戸ホーリーホックでJリーグデビューを果たした。2009年5月に川崎への加入が内定する。ところが同年11月、右膝前十字じん帯断裂などの大けがを負い、3度の手術を受けた。
プロ生活は2010年、孤独なリハビリから始まる。川崎での公式戦初出場は同年9月の天皇杯・鹿屋体育大戦で、初先発でいきなり2得点。背番号11を背負った2年目の2011年は、5月3日の磐田戦でJ1初ゴールを決め、32試合12得点と一気に主力へ駆け上がった。
J1での歩みを年度別にまとめると、次のとおりになる。
| 年度 | 所属 | J1出場 | J1得点 | 主な出来事 |
|---|---|---|---|---|
| 2010 | 川崎F | 6 | 0 | プロ1年目、けがからの復帰 |
| 2011 | 川崎F | 32 | 12 | J1初ゴール、背番号11に |
| 2012 | 川崎F | 26 | 6 | |
| 2013 | 川崎F | 23 | 5 | |
| 2014 | 川崎F | 30 | 12 | 日本代表に初選出 |
| 2015 | 川崎F | 18 | 5 | |
| 2016 | 川崎F | 32 | 15 | 初のベストイレブン |
| 2017 | 川崎F | 34 | 23 | J1優勝、得点王、MVP |
| 2018 | 川崎F | 27 | 15 | J1優勝(連覇) |
| 2019 | 川崎F | 31 | 13 | ルヴァン杯優勝 |
| 2020 | 川崎F | 27 | 14 | J1優勝、天皇杯優勝 |
| 2021 | 川崎F | 33 | 10 | J1優勝(連覇) |
| 2022 | 川崎F | 30 | 5 | |
| 2023 | 川崎F | 16 | 4 | 天皇杯優勝 |
| 2024 | 川崎F | 27 | 4 | |
| 2025 | 川崎F | 13 | 1 | ギネス世界記録に認定 |
| 合計 | 405 | 144 | 2026年9月23日時点 |
数字は川崎フロンターレ公式サイトとJリーグの公式記録による。2026年前半に行われたJ1百年構想リーグは2試合0得点、2026/27シーズンのJ1は9月23日時点で出場がなく、いずれも上の表には含めていない。
頂点は2017年だった。主将を任された小林は、最終節の大宮戦でハットトリックを決め、川崎をクラブ初のJ1優勝へ導く。23得点で得点王に輝き、最優秀選手賞とベストイレブンも合わせて手にした。
ここから川崎の黄金期が始まる。2016年から2021年まで6シーズン続けてリーグ戦2桁得点を記録し、J1優勝は2017、2018、2020、2021年の計4度。2019年のルヴァン杯、2020年度と2023年度の天皇杯もチームの一員として勝ち取った。
144得点はJ1歴代7位で、川崎の選手としてはクラブ最多となる。2位のジュニーニョ(110得点)とは34点の差があり、クラブの得点記録を大きく塗り替えた計算だ。
途中出場からのゴールも多かった。2025年4月には、途中出場から挙げたJ1最多得点(当時29得点)としてギネス世界記録に認定されている。日本代表には2014年10月に初めて選ばれ、同月のジャマイカ戦で国際Aマッチデビュー。代表では14試合で2得点を記録した。
引退を決めた「ガンバ戦前のLINE」と家族の涙
決断には前段があった。2025年シーズン、アウェイのガンバ大阪戦の前、小林は妻にLINEで「今日決められなかったら、サッカー引退するかもしれない」と送っていたという。その試合でゴールを決めたため、このシーズンは辞めなかった。
しかし、2026年前半のJ1百年構想リーグでは2試合の出場で得点がなく、引退を考えるなかで、4月5日の浦和戦で左ヒラメ筋の肉離れを負い、最後はピッチに立てずに終わる。クラブの強化部や社長と話し合うと、応援してくれたサポーターの前に最後は立つべきだと背中を押された。一方で、あと1年、体と心に向き合ったときに頑張り切れない自分もいたという。こうして12月いっぱいでの引退が決まる。
相談相手には、かつて2人でゴールを量産し、現在は川崎のヘッドコーチを務める中村憲剛もいた。百年構想リーグで辞めるのは違うのではないか、1年が無理なら半年でも伝えればクラブも力になってくれるのではないか。そんな助言に、小林は感謝を口にしている。川崎で4度のJ1優勝をともにした鬼木達前監督(現・鹿島監督)にも連絡を入れたが、電話はつながらなかったと明かした。
関連記事:「監督歴9年で5度のリーグ制覇」鬼木達の”すごさ”はどこに?経歴と選手が語る「えげつない貪欲さ」
チームには、9月19日の鹿島戦を控えた週の初めに、選手・スタッフ全員の前で伝えた。その前に大島僚太、家長昭博、丸山祐市の3人には個別に話しており、全員の前で話した後には年齢の近い家長が一緒に泣いて抱き合ってくれたという。
予想外だったのは家族の反応だ。妻から「よく頑張ったね」と言われる場面を思い描いていた小林に、妻は泣いて「やめてほしくない」と訴え、練習の前も後も涙を流す日が1週間ほど続いた。けがやつらい時期を乗り越えてゴールを決める姿を一番近くで見てきた妻に、「いつか来る日が来た」と説明を重ね、少しずつ気持ちが整理されていったと語る。3人の息子には35、36歳のころから「もう少しでサッカーやめるからね」と伝えていた。それでも返ってきたのは「嫌だ!」という言葉。
残り3カ月でゴールを、その先は指導者の道へ
会見で言葉に詰まったのは、サポーターへの思いを聞かれたときだった。クラブが発表した本人コメントでは、試合に出られない日にも11番のユニフォームを着て応援する人たちの姿を見るたび、もう一度頑張らないといけないと思わされたとつづっている。
「自分を信じてくれるファン・サポーターの皆さんがいたから何とかここまでやってこられた」。小林はそう記し、ファン・サポーターと家族のために、最後の3か月はどんな形でもいいのでゴールする姿で感謝を伝えたいと続けた。会見では「幸せな17年間だった」とも話している。
引退後は指導者の道を考えている。体格やスピードに恵まれたわけではない自分が得点を重ねてきた考え方を、FWの育成に生かしたいという。このまま川崎に残れれば、それが一番だとも語っている。
クラブは発表と同じ9月23日に、2026年12月の引退に向けた特設サイトを開設し、会見の模様を公式YouTubeチャンネルで公開した。特設サイトではスマートフォンの待ち受け画像の配布も始まっている。
2026/27シーズンのJ1では、まだ出場がない。けがは癒え、会見の2、3日前に全体練習へ合流したばかりで、10月3日のU-21リーグ・東京ヴェルディ戦での実戦復帰を目指している。数字は405試合144得点のまま、残された時間は約3カ月。17年間で川崎の公式戦184得点を積み上げたストライカーが、最後にもう1点を狙う。
[文/構成 by スポーツライター ミカ]








































































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