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中山律子さんのライバル・須田開代子さんとは 女子プロ1期生の1番と2番、努力の須田と人気の中山がボウリングブームを築いた

中山律子さんのライバル・須田開代子さんとは 女子プロ1期生の1番と2番、努力の須田と人気の中山がボウリングブームを築いた

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「さわやか律子さん」と呼ばれたプロボウラーの中山律子さんが、11月7日に84歳で亡くなった。日本プロボウリング協会が同日発表した。1970年代のボウリングブームを語るとき、中山さんと並んで名前が挙がるのが、4歳年上の須田開代子さんだ。女子プロ1期生のライセンス番号1番と2番。2人がどんな間柄だったのかを、中山さん本人の言葉からたどる。

須田開代子さんとは 女子プロボウラーの第1号

関連記事:中山律子さん死去、84歳 女子プロ1期生でテレビ中継中にパーフェクト、「さわやか律子さん」の歩みと家族 1974年に結婚、夫と娘

須田開代子さんは1938年8月2日、東京・中野の生まれ。横浜市立横浜商業高等学校を卒業し、外資系の貿易会社に勤めた。その会社がボウリングの球を輸入していた縁で投げ始め、2年ほどでアマチュア日本一になったという。

1969年の第1回女子プロテストをトップで通り、日本の女子プロボウラー第1号となった。同じ年に全米女子オールスタートーナメントで準優勝し、公式戦の優勝は通算43回を数える。文藝春秋(1998年12月号)は須田さんを、優勝回数で歴代2位、ボウリングブームの先導役を果たした人と紹介している。

項目内容
名前須田開代子(すだ・かよこ)
生年月日1938年8月2日
出身東京・中野
出身校横浜市立横浜商業高等学校
プロ入り1969年、第1回女子プロテストに、トップで合格(ライセンス番号1番)
公式戦優勝43回
主な役職日本プロボウリング協会副会長(1991年から)
亡くなった日1995年11月20日、57歳

1985年には胃がんの手術を受けたが、半年ほどでトーナメントに戻った。解説者としても活躍し、1991年には日本プロボウリング協会の副会長に就いている。

1967年の大阪、お手洗いで聞いた「安心するのは早いわよ」

2人が初めて顔を合わせたのは1967年、大阪で開かれた大会だった。中山さんの記憶では「第1回全日本オープントーナメント」。当時25歳の中山さんは、まだ鹿児島でアマチュアの試合に出ていたころだ。

女子個人の部で、途中まで1位に立っていたのは中山さんの方だった。ところが、お手洗いで一緒になった須田さんにこう声をかけられる。

「安心するのは早いわよ」

その言葉どおり、須田さんが逆転で優勝し、中山さんは準優勝に終わった。2014年に笹川スポーツ財団のインタビューに応じた中山さんは、須田さんを当時すでに有名で憧れの人だったと語り、負けて「やっぱりすごいな」と感じたと明かしている。

ここでの準優勝が、中山さんの人生を動かす。東京タワーボウリングセンターの関係者の目に留まり、スカウトされて上京した。ライバル物語の始まりは、負けた試合だった。

1969年の第1回女子プロテスト、1番は須田さん、2番は中山さん

2年後の1969年6月、2人は第1回女子プロテストで再び同じ舞台に立った。4日間で36ゲームを投げ、アベレージ180以上なら合格という試験で、受けた45人のうち通ったのは13人だった。

トップは須田さん、2番目が中山さん、3番目がサウスポーの石井利枝さん。この順位が、そのまま日本プロボウリング協会のライセンス番号になった。当時のマスコミは、この3人を「花のトリオ」として中心に取り上げた。

2番という番号を、中山さんは居心地がいいと気に入っていた。インタビューでは、須田さんは1番にぴったりの人だと言い、その理由をこう話している。

「1番というのは、すべてにおいてトップに立てる人でなくてはいけないわけですよ。代表して挨拶もこなさなければならない。」

自分には無理で、須田さんの後をちょこちょこついていくのが性に合っていたという。2位になればどこが悪かったのかを考えられる、とも付け加えた。文藝春秋に寄せた回想でも、中山さんは須田さんを、弱いところを人に見せない太っ腹な人だったと書いている。

努力の須田開代子、人気の中山律子 ブームの中心にいた2人

プロになった2人を、世間は「努力の須田開代子、人気の中山律子」と並べて比べた時期がある。

人気の面で火がついたのは中山さんだった。1970年8月21日に女子プロ初の公認パーフェクトを出すと、シャンプーのCMで「さわやか律子さん」の名が全国に広がる。一方、技術は須田さんが上だったと、中山さん自身が認めている。自分はパワーとスピードがありすぎて曲がるボールが投げられず、「ヘタなほう」だったという。

項目須田開代子さん中山律子さん
生年1938年1942年
ライセンス1番2番
公式戦優勝43回33回
呼ばれ方努力の須田開代子人気の中山律子
結婚1974年1974年
協会の役職副会長初の女性会長、のち名誉会長
死去の年齢57歳84歳

女子プロの試合には客が詰めかけた。全国のボウリング場に出向くと、ドアが壊れそうなほど観客が入ったと中山さんは話している。試合は多い年で85〜90本あった。

ただ、熱狂は数年で下り坂に入る。中山さんは理由として、ボウリング場が増えすぎたこととオイルショックを挙げている。

ライバルで同志、結婚も子どもの年も同じ

「天下のライバル」とも言われた2人は、互いを認め合っていた。中山さんはインタビューで、女子プロがたくさんいる中でお互いに一目置き、相手をライバルだと認めていたと話す。だから須田さんに負けると非常に悔しく、勝ったときの喜びはひとしおだった。

それでも、ふだんの須田さんは仲のいいお姉さんのような人だったという。須田さんの方から「ちょっと見て。私、どこが悪い?」と聞いてくることもあれば、「中山さん、ひじを少し上げたらどう?」と声をかけてくれることもあった。どのメーカーがいいかといった話も含め、2人は助言し合っていた。

人生の節目も重なる。2人とも1974年に結婚し、子どもも同い年だった。

須田さんの最期と「絶対に来ないでよね」

晩年の須田さんは、がんと闘っていた。文藝春秋に寄せた中山さんの回想によると、亡くなった1995年の7月、手術で体重が大きく落ちたあとも、神奈川・大磯のボウリング場のオープニングセレモニーで始球式に立った。わずか1球のために、別のボウリング場で軽いボールを使って練習してから臨んだという。同じころ肺を悪くして検査に通っていた中山さんは、練習をせずに投げてガーターを出した。

体調が悪くなっても、須田さんは投げることにこだわった。その年の8月、退院した須田さんに中山さんが電話で、大会では顔を見せるだけでいいと勧めると、プロである以上いつもボールを投げていないとだめだ、と返したという。

病み上がりだった中山さんは、見舞いに行きたいと伝えていた。返ってきた答えは「絶対に来ないでよね」。須田さんは療養のためアメリカへ渡り、1995年11月20日に57歳で亡くなった。

2014年のインタビューで、中山さんはこう語っている。

「私たち、60代ごろからなら、本当にざっくばらんにいろいろゆっくりと話し合える仲になっていたと思うのです。それがすごく残念でたまりません。」

若いころは話したくても話せないことがたくさんあった、という言葉も添えていた。

須田さんが作ったJLBCを、中山さんが受け継ぐ

須田さんが残したものに、女性だけのボウリングクラブがある。須田さんの働きかけで、1976年にジャパンレディースボウリングクラブ(JLBC)が生まれた。

須田さんの死から3年後の1998年、そのクラブの会長に就いたのが中山さんだった。2004年には日本プロボウリング協会で初の女性会長となり、JLBCの会長は2018年に名誉会長へ退くまで20年にわたって務めた。

1番の須田さんが道を開き、2番の中山さんがそれを受け継いだ。1967年に大阪のお手洗いで声をかけられた日から59年。その2番の中山さんも、84歳で生涯を閉じた。

[文/構成 by ライター 飯田タツヤ]

寄稿者

飯田タツヤ
時事ニュースを中心に、社会の動きから芸能・スポーツの話題まで幅広く書いているWebライターの飯田です。ライター歴は6年。心がけているのは、発表や報道で確認できたことと、まだ分かっていないことを分けて書くこと。「何が起きて、暮らしにどう関わるのか」を最初に整理しています。休日はラジオを流しながらの散歩とサウナ。

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