中山律子さん死去、84歳 女子プロ1期生でテレビ中継中にパーフェクト、「さわやか律子さん」の歩みと家族 1974年に結婚、夫と娘

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「さわやか律子さん」の愛称で親しまれたプロボウラーの中山律子さんが、2026年11月7日に亡くなった。84歳だった。日本プロボウリング協会が同日発表し、病気療養中だったという。1969年に女子プロ1期生となり、翌1970年にテレビ中継の決勝で女子プロ初の公認パーフェクトを達成、1970年代のボウリングブームを引っぱった。
日本プロボウリング協会が7日に発表、病気療養中だった
日本プロボウリング協会は11月7日、中山律子さんが同日に死去したと発表した。スポーツ報知やスポニチによると、中山さんはかねて病気のため療養していた。死因は公表されていない。葬儀・告別式の日程について、協会は確認中で、分かり次第あらためて知らせるとしている。
2004年に協会初の女性会長となり、2012年からは名誉会長を務めた。選手として、そして協会の顔として、半世紀以上ボウリングの世界に身を置いた人だった。
中山律子さんのプロフィール
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 中山律子 |
| 生年月日 | 1942年10月12日 |
| 出身 | 群馬県草津町生まれ、 |
| 出身校 | 鹿児島市立鹿児島女子高等学校 |
| プロ入り | 1969年、 |
| 通算勝利 | 33勝 |
| 主な記録 | 1970年8月21日、 |
| 協会での役職 | 日本プロボウリング協会会長 |
| 家族 | 1974年に結婚、 |
バレーボール少女が東京タワーのボウリング場へ
群馬県草津町で生まれ、幼いころに両親の出身地の鹿児島へ移った。7人きょうだいの5番目で、子どものころはかけっこが大好きだったと、2014年の笹川スポーツ財団のインタビューで語っている。
中学からバレーボールを始め、名門の鹿児島市立鹿児島女子高等学校へ進んだ。顧問の指導は厳しく、毎日暗くなるまで走り込みやダッシュを重ねたという。卒業後は愛知県の実業団チーム、旭精機工業へ進む。身長162cmでジャンプ力が武器だったが、2年後にチームの解散が決まり、20歳で鹿児島に戻った。
ボウリングとの出会いは22歳ごろだ。友人に誘われて投げた最初のスコアは85点。当時は1ゲーム180〜200円と安くはなく、父が亡くなったあと母が始めたおでん屋を手伝いながら、週に1度ボウリング場へ通った。バレーで鍛えた足腰と手首が生き、スコアは投げるたびに伸びていく。
転機は1967年、25歳のときだった。大阪で開かれた第1回全日本オープントーナメントの女子個人で準優勝し、東京タワーボウリングセンターの関係者の目に留まってスカウトされる。母は「がんばってきんしゃい」と背中を押した。子どもが7人もいるのだから1人ぐらい何かで大成してほしい、というのが母の口癖だったという。上京後は寮で暮らし、朝から夕方まで投げ込み、東京タワーの大展望台までの階段600段を往復して体を鍛えた。
女子プロ1期生、1970年8月21日の公認パーフェクト
1969年6月、第1回女子プロテストが行われた。1日9ゲームを4日間投げ、アベレージ180以上が合格ライン。中山さんは母に「落ちたら帰るね」と伝え、1度きりの挑戦と決めて臨んだ。45人が受け、合格は13人。トップは須田開代子さん、2番目が中山さん、3番目が石井利枝さんで、この順位がそのままライセンス番号になった。
須田さんは4歳年上で、のちに「努力の須田開代子、人気の中山律子」と並び称された。通算の優勝回数は須田さんの43回に対し、中山さんは33回。中山さんは須田さんの技術の確かさを認め、自分は2番手が性に合っていたと話している。
関連記事:中山律子さんのライバル・須田開代子さんとは 女子プロ1期生の1番と2番、努力の須田と人気の中山がボウリングブームを築いた
同じ1969年、女子プロ誕生記念大会で初優勝する。翌1970年には全日本女子プロボウリング選手権を制して初代女王となった。
そして1970年8月21日、東京・府中市の府中スターレーンで開かれた月例会の決勝で、12回連続ストライクの300点を記録した。女子プロ初の公認パーフェクトで、試合はテレビで中継されていた。
この日、会場へ向かうタクシーが接触事故を起こし、到着はぎりぎりだったという。気楽に臨んだことで力みが抜けたと、中山さんは後に振り返っている。会場には1000人ほどの観客が入っていた。最後の1投は投げた直後に目をつぶってしまい、快音が響いて目を開けると、仲間の女子プロたちが駆け寄ってくるのが見えて「ああ、やったんだ!」と分かったという。この年、日本プロスポーツ大賞の殊勲賞も受けた。
「律子さん 律子さん 中山律子さん」のCMとブーム
パーフェクトのあと、人気は一気に広がる。1971年から72年にかけて出演したシャンプーのCMで、自分の名前を繰り返すCMソングが流れ、「さわやか律子さん」のイメージが定着した。このCMが、ずっと爽やかでいたいと思う原動力になったと本人は語っている。NHK紅白歌合戦の審査員も務めた。
どこへ行っても「律子さーん」と声をかけられ、移動中の電車で2時間半サインを続けたこともある。サインのしすぎで手が腫れ、ボールに指が入らなかった日もあった。試合は多い年で85〜90本。4日に1度は勝負をしていた計算になる。
ミニスカートのユニホームも注目されたが、本人によれば、膝下丈だと投げにくく、広がるスカートも邪魔になるので膝上のタイトにしていた。おしゃれのためというより、投げやすさを選んだ結果だった。
だが、ブームは長く続かない。ボウリング場が増えすぎたことと、オイルショックが重なり、客足は落ちていった。それでも中山さんは契約するボウリング場の指導で全国を回り、業界を離れなかった。
1974年に結婚、夫と娘との家族
中山さんが結婚したのは1974年、32歳のときだった。2014年のインタビューで本人は、結婚は須田さんと同じ1974年で、子どもも同い年だと明かしている。週刊ポスト(2002年8月30日号)によると、結婚後に娘を授かった。
家族そろってボウリングをすることはほとんどなかったらしい。中山さんは同誌で「主人も、私とやると負けるのでもっぱらゴルフ」と笑っていた。夫と娘の名前や職業は明らかにされていない。
子育ての時期は、投げ方を見直すきっかけにもなった。子どもができたころ、早くボウリングを再開したくてボールをころころ転がしてみると、力を入れなくてもピンが倒れることに気づいたという。そこから力を抜くことを意識し始めた。
弟はプロゴルファーの中山徹さんで、きょうだいそろってプロスポーツの世界で生きた。
けがと病気を越えて現役、協会初の女性会長に
40代からはけがに悩まされた。左ひざを手術し、無理をして右肩を痛め、右ひざも悪くして2年間の完全休養を余儀なくされた。スポーツ報知によると、肩の痛みに加え、1995年には膠原病、さらにリンパ腫にも見舞われたが克服し、1990年代まで現役を続けた。パワーとスピードが持ち味だった投球は、回転とコントロールを重視するスタイルへ変わっていった。
2004年、日本プロボウリング協会の会長に女性として初めて就任し、4期8年務めたあと名誉会長となった。会長時代の2006年には、テレビでの露出を意識した女子のリーグ「P★League」を立ち上げている。須田さんの働きかけで1976年に生まれた女性のクラブ、ジャパンレディースボウリングクラブ(JLBC)では、1998年から会長を務めた。
2014年のインタビューでは、永久シードプロとして生涯現役だと話し、シニア層や障害のある人にもボウリングを勧めていた。中国語でボウリングを「保齢球」と書くことに触れ、年齢を保つスポーツとして広めたいとも語った。
中山律子さんの年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1942年 | 10月12日、 |
| 高校卒業後 | 実業団バレーボールの旭精機工業へ |
| 22歳ごろ | 鹿児島で初めてボウリングを体験 |
| 1967年 | 第1回全日本オープントーナメント、 |
| 1969年 | 6月、 |
| 1970年 | 全日本女子プロボウリング選手権で、 |
| 1971年 | シャンプーCMに出演 |
| 1974年 | 32歳で結婚 |
| 1995年 | 膠原病を患う |
| 2004年 | 日本プロボウリング協会で、 |
| 2006年 | 女子リーグ「P★League」を創設 |
| 2012年 | 協会の名誉会長に |
| 2026年 | 11月7日、 |
「ボウリングに育てられた」と語った人
鹿児島のボウリング場で85点から始まった道は、女子プロ1期生、テレビ中継中のパーフェクト、協会の会長へと続いた。ブームの頂点も、客足が遠のいた時期も、中山さんはボウリングのそばにいた。
2014年のインタビューで、中山さんは自分をボウリングに育てられた人間だと言い、こう続けている。
「業界に何らかのかたちで恩返しがしたいという思いをずっと持っています。」
トーナメント会場では後輩のプレーをずっと見ていて、年配のプロから、本当にボウリングが好きなんだねと言われたこともあったという。ボウリングとともに歩いた84年だった。
[文/構成 by ライター 凪]












































































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