松田治広さん(87)死去 「ヤマシタ跳び」で東京五輪金…宇和島から世界へ続いた跳馬の半生とその経歴を辿る

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東京五輪の体操金メダリスト、松田治広さん(旧姓・山下)が6月19日、87歳で亡くなった。「ヤマシタ跳び」で世界の跳馬を変え、1964年の東京五輪では団体・跳馬の二冠に輝いた。引退後は日本体育大学で指導者を務め、塚原光男や監物永三を育てた跳馬の名匠だ。
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「ヤマシタ跳び」の松田治広さん(87)逝く
体操男子の元日本代表で、日本体育大学名誉教授の松田治広さん(旧姓・山下、まつだ・はるひろ)が、6月19日に87歳で亡くなった。共同通信などが23日、関係者の話として伝えている。葬儀は故人と遺族の意向で近親者のみ。
跳馬の専門家として知られ、考案技「ヤマシタ跳び」で1964年東京五輪の団体総合と種目別跳馬を制した。日本人の名前が公式の技名として国際体操界に残った代表例となる。死因は明らかにされていない。
宇和島東高校から日体大へ 跳馬一筋の出発点
愛媛県宇和島市の生まれ。地元の宇和島東高校で体操を始め、1961年に日本体育大学を卒業した。卒業後は母校の助手として残る道を選ぶ。
転機は日体大の体操体育館にあった。寝泊まりするほど練習に明け暮れる中、ある学生が跳馬で高く跳び上がり、空中で屈伸して着地する姿に目が止まる。前転と屈伸を組み合わせた新しい跳馬の技は、そこから生まれた。
1962年、チェコスロバキア・プラハで開かれた世界体操競技選手権で、考案したばかりの「山下跳び」を披露。日本は団体で金メダルを手にし、本人も種目別跳馬で銀メダルに輝く。
「新ヤマシタ跳び」で東京五輪団体・跳馬の二冠
1964年の東京五輪を前に、外国勢が「山下跳び」を模倣することは見えていた。青森県八戸市での合宿でトランポリンを試してみると、ひねりの感覚をつかむのに有効だと気づく。トランポリンを使い込み、ひねりを足した「新ヤマシタ跳び」が完成した。
本番では地元の日本武道館で団体総合を制し、続く種目別跳馬でも金メダルに輝いた。個人総合は6位、あん馬は4位。「体操ニッポン」の黄金時代の中心にいて、跳馬という一種目を世界の標準ごと書き換える結果につながる。
1966年、西ドイツ・ドルトムントの世界選手権で団体と跳馬の二冠を再現。1968年まで現役を続け、メキシコ五輪後に競技人生を区切った。
結婚、養子縁組で姓を「松田」に 指導者として歩む
東京五輪閉幕の直後、2歳下の女性と結婚した。叔母の松田家に養子縁組して入ったため、姓は「山下」から「松田」へ変わる。技名としての「ヤマシタ」は、競技界に山下治広の名で残った。
引退後は日本体育大学で教鞭をとり、のちに教授・名誉教授へ進む。教え子からは、メキシコ・ミュンヘン両五輪で活躍した監物永三、ミュンヘン・モントリオールの団体金メダリスト塚原光男といった大選手が育っていった。
指導の場は日本の外にも広がる。1970年代にはインディアナ州立大学でバイオリズム研究に従事し、1976年のモントリオール五輪では女子コーチ兼総務として日本代表に加わった。1990年の北京アジア大会では体操日本代表監督を務め、日本体操協会では女子強化委員長や専務理事として日本体操の屋台骨を支える役割を担う。
国際体操殿堂入り、技名「ヤマシタ」は今も世界へ
2000年、米オクラホマシティの国際体操殿堂入りを果たす。日本人選手としては竹本正男、小野喬、遠藤幸雄に続き4人目だった。
跳馬の技名「ヤマシタ」は、現在も世界中の体操競技で使われている。出身地・愛媛のスポーツ顕彰や日本体操協会の表彰など、長い功績が並ぶ。87年の生涯は、跳馬一種目のために何を考え抜いたかの記録でもある。
技名と教え子の系譜 87年の生涯が残したもの
宇和島の少年が始めた跳馬への挑戦は、東京五輪の頂点を経て、技名と教え子の系譜という二つの形で残った。世界の跳馬選手が今もなお「ヤマシタ」を口にする。それは、松田治広さんが一代で築いた財産だ。
謹んで哀悼の意を表する。
[文/構成 by 小川 そら]































































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