武井壮、6年間1番で修徳中学校・高等学校の学費をタダに ラジオで明かした母校時代

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タレントの武井壮(53)が10月20日、ニッポン放送「ナイツ ザ・ラジオショー」にゲスト出演し、母校の修徳中学校・高等学校(東京都葛飾区青戸)時代の話をした。テストはほとんど90点か100点で、6年間ずっと学年1番。そのおかげで学費がかからず、親がいない中でも中学と高校を卒業できたという。「1円も使ってないんですよ」と語った。
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「ずっと6年間1番」ナイツのラジオで語った中・高時代
番組は10月19日から22日まで、スペシャルウィークとしてゲストを迎えていた。20日に出演したのは武井と、元横綱若乃花の花田虎上だった。
話のきっかけは、9月22日に放送されたNHKの「ファミリーヒストリー」だ。武井が自身のルーツをたどったこの回を受けて、ナイツの塙宣之が「修徳に入った時も全部トップの成績だったとかね」と水を向けた。
武井はまず、中学の教科書を初めて手にしたときの感想を明かす。「これバカにしてんのかな」と思うほど簡単に感じたという。中高時代は「特待生で凄い」と言われることが多いが、本人の感覚では、入学する前に学力の土台ができていたという。
そのうえで、武井は「ほとんど90点か100点ぐらいの点数でテスト取ってたんで、ずっと6年間1番取り続けられて、全部学費をタダにできて、親いないけど中・高卒業できたっていう」と振り返った。中学から高校までの6年間、学費に1円も使わなかったと話している。
寂しさの中で始めた独学、小学5年で大学の先生に質問
その学力はどこから来たのか。
武井が語った出発点は、子どもの頃の寂しさだった。母親がいなくなった後、マンションの6階の窓から、母親がいつも帰ってきた交差点を何時間も眺めていたという。そのうちに、道路を走る車の色と数を全部数えられるようになったと苦笑した。
やがて武井は、スポーツと勉強で「自分は1人でやっていくしかない」と思う日を迎える。足を速くしたい一心で、近所の体育大学に通う学生に「なんで走ると疲れるのか」と聞きに行くと、その学生は答えが書いてあるからと、体育大学の教科書をまとめて譲ってくれた。辞書を引きながら運動生理学や解剖学の本を読み進め、2年ほどで全部読み切ったという。
小学5年のときには、大学の物理学の先生を訪ねたこともある。当時40キロ台だった自分の体で、小さな力でも遠くへ速く進むにはどうすればいいのか。数式を使った説明を受けながら、体にかかる重さと一歩ごとに使える力の関係を質問したという。土屋伸之が「スポーツも勉強から入ったっていうことですもんね」と確かめると、武井は「そうなんです」と答えた。スタジオのナイツや相席スタートの山崎ケイは目を丸くした。
「学費も入学金も全部タダ」10年前にもテレビで明かしていた
中高6年間の学費の話を、武井が公の場でしたのは初めてではない。
2016年6月8日放送のテレビ朝日系「あいつ今何してる?」でも、武井は中学・高校の6年間、中間と期末のテストがすべて学年トップだったと明かしていた。このときは、成績がトップなら学費も入学金も全部タダになり、1番には月に1万数千円の参考書代のような奨学金も出たと説明し、「6年間通って学費は1円も払わず、100万円ぐらいもらって通っていた」と語っている。
10年前の発言と、10月20日のラジオでの「6年間1番」「全部学費をタダに」の話は、内容がそろう。どちらも本人の説明で、当時の制度の正式な名称や金額を学校が公表したものではない。修徳中学校・高等学校は現在も、令和9年度入試の生徒募集要項に中学校と高校それぞれの「特進クラス特待生制度」を載せ、成績に応じて入学金などを免除するとしている。
9月22日の「ファミリーヒストリー」でも、この中高時代が紹介された。両親の離婚後、2歳上の兄と2人で暮らし、十分な生活費がない中で、武井は学費免除のために勉強を続けた。兄は弟の学業を優先し、中学を卒業するとレストランで働き始めたという。兄はその後、俳優の道に進んだが、1995年8月にがんのため24歳で亡くなっている。
葛飾区青戸の母校、創立120年を超える修徳中学校・高等学校
修徳中学校・高等学校は、学校法人修徳学園が運営する東京都葛飾区青戸8丁目の私立校だ。学校の沿革によると、始まりは1904年(明治37年)5月、校祖の中川よしが現在の墨田区本所に開いた教場で、当初は「東本夜学部」と呼ばれた。1913年(大正2年)に「修徳夜学校」となり、校歌の冒頭「洋々たり隅田の流れ」はこの創立の地にちなむ。
戦後の学制改革で、1947年に新制中学校、1948年に新制高校が発足した。1949年9月には葛飾区青砥町(現在の青戸)へ校舎を移し、2004年に創立100周年を迎えている。武井が通った頃、中学校の名前は「修徳学園中学校」だった。2011年に今の「修徳中学校」へ改め、同じ年の8月に新校舎が完成した。
学園が大切にするのは、校祖・中川よしの教えの中心である「報恩感謝」。親切を受けたことを忘れず、その恩に報いる心を指す。校訓には「質実剛健・勤勉努力・謙虚貞順」を掲げる。学校長は、卒業する6年後には、周りの人に支えられてきたことに気づいて巣立ってほしいと、メッセージに書いている。
勉強だけの中学時代でもなかった。武井は修徳学園中学校で野球部に入り、試験の学年1位を保ちながら白球を追った。当時の監督は、修徳学園中を全国屈指の強豪に育て、16年間で全国中学校軟式野球大会に2度導いた小田川雅彦。武井はその教え子の1人として知られる。
葛飾への思いも強い。葛飾区の広報紙「広報かつしか」2014年新年号のインタビューで、武井はお花茶屋で生まれ、青戸、亀有と移りながら高校を卒業するまで葛飾で過ごしたと話した。駄菓子屋のおばちゃんが今も「壮ちゃん」と覚えていてくれると明かし、「葛飾は地球上で一番住みやすいまちじゃないかな」と語っている。
十種競技で日本一、兄の思いを継いで芸能界へ
修徳高校を卒業した武井は、奨学金を得て神戸学院大学に進み、大学で陸上を始めた。スポーツテストの成績を見た友人に陸上部へ誘われたのがきっかけで、最初は短距離を走り、のちに十種競技へ移る。その後、中央学院大学へ進み、1997年の第81回日本陸上競技選手権大会の男子十種競技で、7606点を挙げて優勝した。
大学在学中に兄を亡くした武井は、体を鍛えてスポーツで何かを成し遂げるだけでは、その穴は埋められないと感じたという。そこで「20代は目いっぱいスポーツをやる。30代からは、兄貴ができなかった芸能の続きを、俺がやる」と決めた。日本選手権を制した後はゴルフ留学やスポーツトレーナーを経て、30代で芸能活動に軸足を移している。「百獣の王」を名乗ってバラエティー番組で注目を集め、2021年6月から2022年11月までは日本フェンシング協会の会長も務めている。
この日のラジオで、武井は自分のスポーツを「頭で考えたらわかるっていうことからのスポーツ」と言い表した。親のいない家で教科書を読み込んだ少年は、その知識で修徳の6年間を学費なしで通い抜け、十種競技の頂点に立った。
[文/構成 by エンタメライター 真柴 ことね]












































































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