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クライブ・デービスさん死去、94歳 ホイットニー・ヒューストンを発掘した音楽プロデューサーの経歴をたどる

クライブ・デービスさん死去、94歳 ホイットニー・ヒューストンを発掘した音楽プロデューサーの経歴をたどる

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米音楽業界を半世紀以上支えてきたプロデューサー、クライブ・デービスさんが6月22日、ニューヨーク・マンハッタンの自宅で死去した。94歳。アリスタ・レコードを率い、ホイットニー・ヒューストン、ジャニス・ジョプリン、アリシア・キーズら多くのスターを世に送り出した人物だ。

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マンハッタンの自宅で94年の生涯 60年支えた米音楽プロデューサー

米音楽プロデューサーのクライブ・デービスさんが6月22日、ニューヨーク・マンハッタンの自宅で亡くなった。94歳。代理人は米メディアに送った声明の中で、家族や近しい人たちに見守られながら、年齢に伴う体調悪化のなか静かに息を引き取ったと伝えている。今年初めには、呼吸器の病気で入院していたとの報道もあった。

葬儀の予定や詳しい死因の発表は、現時点では確認されていない。家族はSNSで「私たちの父は、数えきれない人生のサウンドトラックを形作った音楽の伝説だった」とコメントを寄せた。

レコード会社の経営者として60年以上にわたり、ジャンルや世代を超えてヒットを生み出してきた人物だ。ジャニス・ジョプリン、ブルース・スプリングスティーン、バリー・マニロウ、ホイットニー・ヒューストン、カルロス・サンタナ、アリシア・キーズ──関わりのあったレーベルから、時代を変える歌手が次々と生まれた。

両親を相次いで亡くした18歳 ハーバード・ローから音楽の世界へ

1932年4月4日、ニューヨーク・ブルックリン生まれ。父は電気技師、母は専業主婦の家庭で育った。だが18歳のとき、父と母を11か月の間に相次いで亡くし、孤児となる。

ニューヨーク大学に奨学金で進学し、その後ハーバード・ロー・スクールへ。1956年に同校を卒業した。最初の職場は音楽業界ではなく、法律事務所だ。

転機は1960年。当時のCBS傘下、コロムビア・レコードに顧問弁護士として入社する。法務畑から契約交渉や経営の中枢へ歩みを進め、1967年に35歳の若さで同社の社長に就任した。

同じ時期、サンフランシスコ近郊で開かれたモンタレー・ポップ・フェスティバルに足を運ぶ。会場でジャニス・ジョプリンらの演奏に触れ、ロックの可能性に強く惹かれていく。本人はこの体験を「決定的な気づきの瞬間」と振り返っていた。

ホイットニーを2年かけて育て、サンタナを蘇らせた耳

1973年、経費の不正使用を理由とした告発を受け、コロムビアから解任される。再起をかけた翌1974年、ベル・レコードを母体に新たに立ち上げたのが「アリスタ・レコード」だ。

もう一つの分岐点が、1983年のホイットニー・ヒューストンとの契約だ。ニューヨークのクラブ「スウィートウォーターズ」で、母シシー・ヒューストンと共演していたデビュー前のホイットニーを見出し、アリスタと契約。その後の2年間、自ら楽曲を選び、慎重に作品づくりを重ねていく。1992年公開の映画「ボディガード」のサウンドトラックは世界中で売れ続け、ホイットニーは時代を代表する歌手になった。

もう一つの代表作が、ギタリスト、カルロス・サンタナの1999年作「Supernatural」だ。商業的に低迷していたサンタナに再起の場を用意し、若手アーティストとの共演を中心に据えたこのアルバムは全米1位を獲得。翌年のグラミー賞では9部門を制し、デービスもプロデューサーとして2つのトロフィーを手にする。

ジャニス・ジョプリン、ブルース・スプリングスティーン、アレサ・フランクリン、バリー・マニロウ、ディオンヌ・ワーウィック、パティ・スミス、アリシア・キーズ、キャリー・アンダーウッド──関わった歌手の名前を並べるだけで、戦後の米ポップス史の一角が見えてくる。

コロムビア解任、アリスタ創設、Jレコード…半世紀貫いた現場感覚

経営者としても波乱が多かった。2000年、親会社BMGとの方針の違いから、自ら立ち上げたアリスタを去ることになる。それでも引退はせず、同じ年に新レーベル「Jレコード」を立ち上げた。

立ち上げ資金として、BMGから1億5000万ドル規模の出資を引き出す。Jレコードからはアリシア・キーズや若手R&Bアーティストが次々とデビューし、2000年代以降の米音楽シーンの一角を担うことになる。

その後はBMGがJレコードを買い取る形でグループに合流し、ソニー・ミュージックエンタテインメントの最高クリエイティブ責任者(CCO)に就任した。70代、80代を過ぎても新人発掘や楽曲選定の現場に立ち続け、自分の「耳」を引退させなかった。

「ミュージシャンではないのに音楽史を動かした人」と語られる一方で、2000年にはレコーディング・アカデミーから理事功労賞を受け、同じ年に「ロックの殿堂」へ非演奏者として迎え入れられている。

家族とプレ・グラミー・ガラ 後進に託した音楽の場

私生活では2度結婚し、2度離婚を経験した。息子3人と娘1人、孫は8人。長男フレッドは投資銀行家、次男ダグはエンターテインメント弁護士兼プロデューサーでグラミー受賞歴を持つ。三男ミッチェルはコンサートプロモーター、長女ローレンもエンターテインメント分野で活動するなど、家族の多くが音楽や娯楽の世界に近い場所にいる。

2013年に出した自伝「The Soundtrack of My Life」では、長年の交際関係に触れ、自身が両性愛者であることを公表した。80歳を過ぎてからの自己開示は、業界の内外で静かな話題となる。

毎年グラミー賞の前夜にプライベートに開いてきた「プレ・グラミー・ガラ」は、1970年代半ばに始まる。2009年からはレコーディング・アカデミーの公式行事に組み込まれ、業界人とアーティストを一堂に集める場として定着していった。

2003年には、ニューヨーク大学(NYU)ティッシュ芸術学部に音楽プロデューサーを育てる「クライブ・デイヴィス・インスティテュート」を創設。次の世代の現場の人を育てる「場」を残した。

家族のSNS声明は、「父の決断と判断、そして妥協のない仕事が、無数の人々の人生のサウンドトラックを形作った」と続く。音楽そのものを「作る人」ではなく、「届ける人」の側から60年を生き抜いた──その軌跡が、いま静かに振り返られている。

[文/構成 by 小川 そら]

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