川崎のぼる、85歳の『巨人の星』作者が明かした少年時代 九州へ疎開し小学校だけで3回転校

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時間がない人向けの30秒で理解ゾーン
『巨人の星』の作画を担当した漫画家の川崎のぼる(85)が、熊本放送(RKK)のインタビューで少年時代を語った。戦時中は九州へ疎開し、小学校だけで3回転校。友達ができず、家のちゃぶ台で漫画を描く時間だけが楽しみだったという。野球を知らないまま国民的野球漫画を引き受けた経緯や、布団で寝られるのは週2回だった連載当時の生活も明かした。
「九州へ疎開していて、小学校だけで3回も転校した」
川崎は1941年、大阪市の生まれ。現在は熊本県菊陽町で暮らす。10月24日に熊本放送が配信したインタビューで、意外な少年時代を明かした。
野球漫画の金字塔を描いた人物だから、さぞ野球に明け暮れた子どもだったのだろう。インタビュアーのそんな前提を、川崎はあっさり否定する。
「いや、もう全く野球とは縁がなかったですね」
当時の子どもの遊びといえば、メンコやベーゴマ、そして野球。だが川崎は、そうした輪の中にいなかった。理由として挙げたのが、戦時中の疎開と度重なる転校だった。
「九州へ疎開していて、小学校だけで3回も転校したんです。引っ越しが多かったので友達もいなくて、だんだん内向的な性格になっていきました」
家の中で過ごす時間が多くなり、自然と漫画を描くようになった。ほかに趣味もなかった少年の居場所は、丸いお膳の前だった。本人いわく、まさに『巨人の星』に出てくるようなちゃぶ台だ。
「画用紙に向かって漫画を描いている時間だけが唯一自分の時間で、それが楽しかったんですよ」
野球を知らず、一度は断った連載依頼
その少年が、なぜ野球漫画を描くことになったのか。
出版社から依頼が届いた当初、川崎は断っている。長嶋茂雄はメンコにもなっていたので知っていたものの、球種は直球とカーブくらいしか分からなかった。漫画で描くには、ルールだけでなく軸足の使い方まで理解していなければならない。そもそも野球に興味がなく、勉強する気にもならなかったという。
状況を変えたのは、編集部の熱意だった。川崎によると、掲載誌ではちばてつやの野球漫画『ちかいの魔球』が終わった直後で、これを超える野球漫画はないとまで言われていた。それでも編集部は、野球を通して一人の少年が成長していく大河ドラマのような物語を世に出したいと口説き続けた。
当時の川崎は、雑誌ではまだ新人扱い。何度も断るうちに、そこまで言ってくれるのは「絵描き冥利に尽きる」と感じるようになり、最後は引き受けた。
原作は梶原一騎。川崎は、小説家志望だった梶原も編集部に口説かれて本気で取り組むことになったと聞いている。編集部と2人が「三位一体」となり、「絶対面白いもん作るぞ」と燃えた。1966年に「週刊少年マガジン」で始まった連載は、1971年まで続く大ヒット作になる。
「ガーン」と瞳の炎、そして布団で寝られるのは週2回
ショックを受けた場面の「ガーン」、闘志を示す瞳の中の炎。いまも使われるこうした漫画表現について、インタビュアーから考えて生み出すのかと問われた川崎は「その場で思いつきます」と短く答えた。
作品が支持された理由には、主人公の人物像を挙げる。それまでの少年漫画は勧善懲悪が多かったが、星飛雄馬は読者と同じ生身の少年だった。挫折もすれば負けもするし、人を妬み、お金の話も出てくる。熱い友情もある。読者が自分たちの経験と重ねたのだろうと川崎はみる。
連載中の生活は過酷だった。
布団で寝られたのは週に2回。あとはアシスタントたちと机の下で仮眠をとり、30分眠ったあと24時間以上働き続けることもあった。風呂に1週間入れないこともあったという。毎週「もうやめよう」と思いながら描き、最後のページが仕上がると眠気も疲れも消えた。20代で描いたこの作品を、川崎は自身の青春だったと振り返る。
梶原の原作は1話が10〜13枚。甲子園で花形満と対決する場面では、原作1話分を3回に分けて描いた。顔のアップ、ギラギラした太陽、群衆、汗、バッターのグリップ。描き込むほどページを食い、1球投げるのに1週間かかったと笑う。
星飛雄馬が巨人軍に入団すると、実在の選手も多く登場するようになる。テレビで見る機会がある巨人の選手はうろ覚えでも描けたが、パ・リーグの選手はほとんど分からなかった。そこで選手名鑑を横に置き、写真を見ながら描いたという。原作付きの仕事は初めてで、苦手な場面も描かなければならない挑戦の連続だった。描き終えた後は、燃え尽き症候群のようになったと明かしている。
大阪から三鷹、そして熊本へ
川崎が漫画に夢中になったきっかけは、手塚治虫の作品だった。手塚の『新寳島』に出合って模写を重ね、1957年に16歳で貸本漫画『乱闘炎の剣』を出してデビューする。
『巨人の星』のほか、『いなかっぺ大将』『荒野の少年イサム』などの代表作を持つ。1967年からは東京都三鷹市に長く住み、のちに熊本へ移った。2023年には、熊本日日新聞社が創設した熊日マンガ文化賞の第2回受賞者に選ばれている。
今年6月には、読売新聞西部本社文化部がその歩みをまとめた評伝『劇画の巨星 川崎のぼる伝』が刊行された。今回のインタビューも、この本の出版をきっかけに行われたものだ。
「一生のうちに一度、何かに夢中になれる」作品に
インタビューでは、現在の野球についても語った。今の選手はフォームもユニフォームもスマートで、きれいに整っている。それでも、昔の長嶋の豪快な空振り三振の写真を見ると「やっぱりいいな」と感じ、だぼだぼのユニフォームで投げる無骨な姿も好きだという。高校野球で議論される7イニング制については、打者が3度、4度と打席に立ちながら投手の攻略を考えるのが野球の面白さだとして、9回を見ていたいと話した。
漫画家を目指す若い世代には、感受性を育ててほしいと呼びかけた。小さい頃の暮らしや育ち方のせいか、自分は感受性が強かったと川崎は話す。道端のアリを見てもドラマを思い浮かべ、人の話を聞いてすぐに鳥肌が立った。そうした感性が創作の源になるという。
転校続きで友達のいない少年が、ちゃぶ台の上で描いた漫画。その時間の先に、星飛雄馬の物語があった。
一生のうちに一度、何かに夢中になれるときがあるとすれば、自分にとってそれは『巨人の星』を描いているときだった。85歳になった作者は、そう語った。
[文/構成 by エンタメライター 真柴 ことね]











































































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