『恩讐の彼方に』映画化決定、主演は永山瑛太 2028年の劇場公開目指し大森立嗣監督と再タッグ

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菊池寛の短編小説『恩讐の彼方に』の実写映画化が9月25日に発表された。主演は永山瑛太(43)、監督と脚本は大森立嗣(56)が務める。2人が組むのは2017年の映画『光』以来で、2028年の劇場公開を目指す。原作は大分県中津市・耶馬溪(やばけい)の「青の洞門」にまつわる史実をもとにした物語で、京都や大分での第1期撮影はすでに終わっている。
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京都・大分で第1期の撮影終了、冬の場面は2027年に
製作と配給は、ツインエンジンとヨアケの2社が共同で担う。ツインエンジンは興行収入27億円を突破したオリジナルアニメーション映画『超かぐや姫!』や「劇場版モノノ怪」シリーズを手がけた会社。ヨアケは大森監督の『日日是好日』(2018年)や『おーい、応為』(2025年)を世に出してきた。
ツインエンジンは9月7日にヨアケと資本業務提携を結んで同社をグループに迎え、実写映画に本格参入した。両社の実写作品は、菅田将暉が長編初監督と主演を務める『死の谷’95』、中島歩主演の『旅する練習』(いずれも2027年公開予定)に続き、本作が第3弾になる。
撮影は2026年5月から6月にかけ、京都と大分を中心に第1期を終えた。冬の場面を撮る第2期は2027年の予定で、それを待たずにポストプロダクション(撮影後の編集や仕上げの作業)が並行して進む。2期に分けて撮り切る、足かけ2年がかりの撮影だ。
発表にあわせて公開されたファーストカットには、耶馬溪の切り立った岩壁を前に立ち、壁をじっと見つめる主人公の姿が写っている。映画は、深い渓谷の岩壁に鑿(のみ)と槌(つち)で穴を穿ち続ける男を軸に、その男が抱える過去を描く。永山以外の出演者や公開日の詳細は、まだ発表されていない。
『まほろ』2作と『光』に続く顔合わせ
2人の縁は15年前にさかのぼる。三浦しをんの直木賞受賞作を映画化した『まほろ駅前多田便利軒』(2011年)で、永山は松田龍平とともに便利屋コンビを演じた。続編の『まほろ駅前狂騒曲』(2014年)でも同じ役に戻り、2作とも大森監督がメガホンを取っている。第1作の『まほろ駅前多田便利軒』は、9月26日時点でU-NEXTの見放題作品として配信されている。
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2017年の『光』も、原作は三浦しをんの小説だった。主演は井浦新。永山は、25年前に離島で起きた事件の真相をほのめかしながら信之(井浦新)の前に現れる輔を演じ、長谷川京子、橋本マナミも顔をそろえた。
この3作は、いずれも「瑛太」名義で出演した時期の作品になる。永山は2019年12月25日に本名への改名を発表し、2020年から永山瑛太として活動する。改名後に大森監督と組むのは、本作が初めてだ。
その間、それぞれの仕事も積み重なった。永山は是枝裕和監督の『怪物』(2023年)に出演し、原田マハが脚本と監督を手がける『無用の人』(2027年1月29日公開予定)も控える。大森監督は2024年に『湖の女たち』を発表し、2025年には長澤まさみ主演の『おーい、応為』で、葛飾北斎の娘で絵師の応為の生涯を映画にした。
「屈強な俳優」が必要だった プロデューサーが語る起用の理由
ヨアケの吉村知己プロデューサーはコメントで、大森監督と長い時間をかけて脚本を練ってきた経緯を明かした。
「大森監督と長年に渡り脚本を開発し続けました。粘りに粘った大森監督。この稿で行けるのではないか!という達成感と共に、そこに必要なのは主人公を演じることができる、屈強な俳優でした。それが永山瑛太さんです。」
吉村プロデューサーは永山を「理屈を超えて、映画と溶け合うような俳優」と評し、オファーを受けてもらえたことが「とても嬉しかったです」とつづる。大森監督とは『おーい、応為』に続いて時代劇が2作続くことにも触れ、撮影初日に京都の松竹撮影所へ再び戻れた喜びを書き添えた。
原作については、善と悪、自分と他人、過去と今と未来、人間と自然が渾然一体となった小説だと表現した。筋書きを表面的に追うだけでは見逃してしまうその重さを、スタッフとキャストが映画に収めようとしているという。永山本人と大森監督のコメントは、発表の時点では出ていない。
主殺しの市九郎と仇を追う実之助、原作の筋書き
菊池寛は1888年に香川県高松市で生まれ、のちに雑誌「文藝春秋」を創刊し、芥川賞と直木賞の創設にも関わった作家だ。『恩讐の彼方に』は1919年(大正8年)1月、雑誌「中央公論」に発表された。菊池は前年の1918年に同誌で発表した『無名作家の日記』『忠直卿行状記』で文壇に認められており、本作もその時期を代表する作品になった。
主人公の市九郎は、江戸・浅草田原町の旗本、中川三郎兵衛に仕える男だった。主人の寵愛する妾のお弓と通じたことで斬りかかられ、頬に傷を負って逆上し、反撃して主人を斬り殺してしまう。お弓と江戸を逃げた市九郎は、木曽路の鳥居峠に住みつき、昼は茶店、夜は旅人を襲う強盗という暮らしに落ちていく。
やがて罪の重さに耐えられなくなった市九郎は、お弓のもとを去り、美濃・大垣の浄願寺で出家して了海と名乗った。諸国をめぐる途中、豊前の山国川沿いにある難所「鎖渡し」で、馬子が転落死した現場に行き合わせる。鎖渡しでは、年に3、4人、多い年には10人もの人が命を落とす。岩壁を掘り抜いて道を通せば、その命が救われる。了海はそう考え、ひとりで槌を振るい始めた。
村人は最初、この僧を笑った。それでも了海は掘り続け、9年目の終わりには奥行き22間(約40メートル)に達する。村人が手を貸すようになった一方で、父を殺された三郎兵衛の子・実之助は、13歳で事の次第を知り、剣の腕を磨いて仇討ちの旅に出ていた。
九州で了海を見つけた実之助は、その場で討とうとする。しかし、石工たちから洞門が通じるまで待ってほしいと懇願され、刃を収めた。実之助自身も槌を取って並んで掘り、了海が最初の槌を下ろしてから21年目の延享3年9月10日の夜、ついに岩壁が抜ける。仇同士の2人は手を取り合い、涙を流した。
原作は過去にも映像になっている。1925年には、牧野省三の監督で映画化された。
史実の禅海和尚は托鉢で資金を集め、石工を雇って掘った
では、モデルとなった青の洞門の実際の歴史はどうか。
中津市によると、洞門は本耶馬渓町樋田・曽木にある。諸国巡礼の途中で耶馬溪に立ち寄った禅海和尚は、鎖渡と呼ばれる難所で人や馬が命を落とすのを見て、1735年(享保20年)に洞門を掘る誓いを立てたと伝わる。1750年(寛延3年)には第1期工事の落成を祝う大供養が営まれ、以降は人4文、牛馬8文の通行料を取って工費に充てた。日本初の有料道路ともいわれる。30年余りを経た1764年(明和元年)、全長342メートル、うちトンネル部分144メートルの洞門が完成した。完成年を宝暦13年(1763年)とする資料もある。
小説との違いは大きい。小説の了海は、たったひとりで槌を振るうところから始め、村人の助けを得るまでに9年を費やした。一方、中津市の説明では、史実の禅海は托鉢で寄付を募って資金を集め、雇った石工たちとノミと鎚で掘り進めている。実之助による仇討ちの話は、菊池寛が加えた創作だ。発表で紹介された「約30年」は史実の禅海の歳月を指し、小説の中で了海が岩壁を抜くまでに費やした年月は21年になっている。
洞門は1906年から翌1907年(明治39〜40年)にかけての大改修で大部分が原形を失ったものの、トンネル内の一部や明かり採り窓には手掘りの跡が残る。完成当初は「樋田の刳抜(くりぬき)」と呼ばれ、小説でも「樋田の刳貫」の名で登場する。1942年(昭和17年)に大分県の史跡に指定された際、「青の洞門」が正式な名称になったとされる。中津市は、菊池の小説で一躍有名になった場所として紹介している。
2028年の公開までは、まだ時間がある。100年以上読み継がれてきた贖罪と赦しの物語を、永山と大森監督が耶馬溪の岩壁の前でどう撮るのか。冬の撮影を終えた先に、その答えが出る。
[文/構成 by MEDIA DOGS編集部]










































































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