三原綱木さん、腎臓がんのため80歳で死去 ブルー・コメッツのギタリストで紅白の指揮を30年

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グループサウンズ「ジャッキー吉川とブルー・コメッツ」のギタリストで、NHK紅白歌合戦のバンドマスターも務めた三原綱木さんが9月11日、腎臓がんのため都内の病院で亡くなった。80歳だった。所属事務所が15日に発表した。葬儀は家族葬で済ませ、後日お別れの会を開く予定だ。
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9月11日午前9時2分、都内の病院で死去
三原綱木(みはら・つなき、本名同じ)さんが亡くなったのは9月11日午前9時2分。死因は腎臓がんで、東京都内の病院で息を引き取った。
所属事務所の坂本エンターテインメントは15日、「弊社所属のギタリスト 三原綱木(本名:同じ)が かねてから病気療養中のところ2026年9月11日午前9時02分腎臓癌のため享年80歳にて逝去いたしました」と発表した。葬儀は故人の遺志により家族葬で執り行ったと報告し、お別れの会は後日企画して改めて知らせるとしている。
1945年11月3日生まれで、東京都出身。81歳の誕生日を2カ月足らず後に控えての別れとなった。
春に病気が見つかり、3月の大阪公演が最後の仕事に
事務所の説明によると、腎臓がんが見つかったのは2026年の春頃だった。4月から入院し、がんはかなり進行した状態で転移もあったという。適切な治療を受けたものの、最期は家族にみとられながら旅立った。
最後の仕事は、3月に大阪で出演したコンサートだった。事務所はこのライブの後に体調を崩して都内の病院に入院し、以後は療養を続けていたと説明している。
がんが見つかってから、わずか半年ほどだった。2025年11月に80歳を迎え、事務所の公式サイトには「三原綱木80歳バースデーライブ」の告知も載っている。
ブルー・シャトウでレコード大賞、GSブームの中心に
音楽との出会いは早い。小学4年の時からクラシックギターを習い、高校1年でジャズギターの勉強を始めてジャズバンドで腕を磨いた。大橋プロダクション所属のバンド「ファイヤーボール」で活動した後、1960年代前半に同じ事務所の「ジャッキー吉川とブルー・コメッツ」へギター兼ボーカルとして加わる。
ブルー・コメッツはリーダーでドラムのジャッキー吉川さん、ベースの高橋健二さん、フルートとサックスの井上忠夫さん、キーボードの小田啓義らが並ぶ実力派だった。三原さんは2019年に応じた日刊スポーツのインタビューで「ブルーコメッツはジャズを専門にやろうと結成されたから、音楽にすごく厳しかった」と語っている。
1966年には東京・日本武道館でのザ・ビートルズ日本公演で前座を務めた。翌1967年の「ブルー・シャトウ」は第9回日本レコード大賞の大賞に輝き、グループサウンズ(GS)の人気を引っ張った。同じ1967年には、美空ひばりさんの「真赤な太陽」のレコーディングにも参加している。ギターだけでなく作曲も手がけ、グループの「雨の赤坂」は三原さんの作曲だ。紅白歌合戦にはブルー・コメッツとして3回出場した。
郷ひろみのバンドを経て、ニューブリードのバンドマスターへ
1972年にグループを離れると、歌手の田代みどりとの夫婦デュオ「つなき&みどり」として「愛の挽歌」で再デビューした。1976年には郷ひろみのバックバンド「綱木バンド」を結成し、8年間リーダーを務めた。フジテレビ系「夜のヒットスタジオ」では、オーケストラの指揮も任されている。
転機は1986年だった。16人編成のビッグバンド「ニューブリード」のバンドマスターに就き、バンド名は「小田啓義とニューブリード」から「三原綱木とザ・ニューブリード」に変わった。バンドマスターはバンドのリーダーであり、指揮者でもある。以後、NHK「歌謡コンサート」「紅白歌合戦」などのステージで指揮と編曲を受け持ち、訃報とともに伝えられた経歴では、その期間を32年間としている。
2001年にブルー・コメッツが活動を再開すると、三原さんも再びギターを手にし、2020年1月までメンバーとしてステージに立った。2020年4月にジャッキー吉川さんが亡くなった際には「別れは悲しいが、きっと天国でドラムをたたいてくれると思います。僕はまだまだこっちでギターを弾きますが、いずれ向こうへ行ったら再会して、一緒に演奏したい」とコメントしている。2022年4月には芸能生活60周年の記念曲「呑もうよ 友よ」を出した。2025年10月には妻のケイ・アンナとテレビ朝日系「徹子の部屋」に出演し、ギターが弾けて声が枯れるまで歌い続けると誓っていた。
紅白で30年、北島三郎の大トリでテンポを落とした夜
紅白歌合戦でバンドマスターを務めたのは1986年から2015年までの30年間。大みそかの生放送で、歌手の後ろから数え切れないほどの曲を支えた。
何より大事にしたのはテンポだった。前出のインタビューでは「本番前に譜面を全部チェックします。この歌手はこのテンポ。教えてもらったものではなく、経験から来る感覚です」と明かしている。リハーサルから数えると長時間立ち続ける仕事なので、ポップス出身らしくリズムを取りながら軽く屈伸するように指揮していたという。
最も緊張したのは1996年の第47回、北島三郎が大トリで「風雪ながれ旅」を歌った場面だった。専属のバンドマスターが危篤だと連絡を受けた北島から、感情を込めて歌いたいのでテンポを落としてほしいと頼まれたのだ。
秒単位で進む生放送で、テンポを変えるのは本来許されない。それでも三原さんは頼みを受け入れ、テンポを落とした。「北島さんは、バンマスのためにも歌ったのでしょう。歌い終わったら、泣いていた」と語り、そのバンドマスターは年が明けて亡くなったという。
プロの歌手でも本番で間違えることはある。そんな時はマイク越しの声でメンバーに合図を送り、演奏を歌に合わせて直した。「我々は歌に合わせますから。歌手に気持ち良く歌ってもらうのが一番」と、伴奏を担う側の考え方を語っていた。
歌番組の減少やカラオケ技術の進化で、生演奏の場は減った。そのことについては「寂しいですよ。生演奏の妙味をぜひ感じてほしいですね」と話していた。
郷ひろみや堺正章が追悼、お別れの会は後日
訃報を受け、ゆかりのある人たちが15日に相次いで所属事務所を通じてコメントを出した。
20代の頃にバックバンドで支えてもらった郷ひろみ(70)は「綱木さんとは、ボクが20代の頃からのお付き合いでした。本当にお世話になりました。綱木さんはいつも明るく、周りを笑顔にしてくれる方でした」とつづり、「まだ、亡くなられたことが信じられず、寂しい思いです」と悼んだ。
GSの時代にザ・スパイダースのボーカルだった堺正章は、ライバル同士だった両グループの間で「三原綱木さんはその壁を取っ払って我々と話をしてくれた唯一の人間です」と人柄をしのんだ。「GSの仲間が次々と旅立ち、もうこれ以上お別れしたくないと思っていても時間は残酷なものです」とも記している。
お別れの会の日程や場所は、9月16日時点で発表されていない。事務所は詳細を改めて知らせるとしている。
[文/構成 by MEDIA DOGS編集部]





































































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