「がんこ寿司」小嶋淳司さん死去 すしの“時価”をやめて値段を表示、業界の常識を変えた創業者

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和食チェーン「がんこ」を一代で築いた小嶋淳司さんが、91歳で亡くなった。大阪・十三の4坪半のすし店から出発し、当たり前だった「時価」をやめて値段を掲げた発想が、全国に広がる看板へと育つ。関西の外食と経済界を長く支えた歩みをたどる。
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「関西外食の雄」小嶋淳司さんの訃報
小嶋淳司さんが8月19日、大阪市内の病院で亡くなった。91歳だった。老衰のためと発表されている。
会社と各報道によると、通夜と葬儀は近親者だけで済ませ、後日あらためてお別れの会を開く。喪主は長男で、現在GANKOの社長を務める達典(たつのり)さん。
すしの値付けを変え、4坪半の店を全国チェーンへと育てた創業者だった。関西の外食業界では「関西外食の雄」と呼ばれ、経済界でも重きをなした一人だ。
和歌山の雑貨屋から、すし修業の道へ
1935年7月16日、和歌山県西牟婁郡上富田町で生まれた。実家は「こじま」という雑貨屋で、高校時代から店番を任され、商いの手ほどきをそこで受ける。
進んだのは同志社大学の経済学部。「がんこ」という後の店名は、このころ本人につけられたあだ名に由来している。頑固と言われた気質は、のちの商いでも消えなかった。
大学を出るとすし店で腕を磨き、独立の道を選んだ。商いの原点が実家の雑貨屋にあり、技術の土台が修業先のすし店にある。二つの経験が、のちの発想を支える。
「時価」をやめた4坪半の一手
1963年、大阪・十三に4坪半のすし店「がんこ」を開いた。ここで小嶋さんは、当時のすし店では当たり前だった「時価」をやめる。ネタごとに値段を掲げ、客が安心して注文できるようにした。
周囲のすし職人からは「そんなことをしたら、すぐ潰れる」と言われたという。それでも自分の考えを頑固に貫き通す。値段が見えれば、客は気兼ねなく好きなネタを頼める。この安心感が評判を呼び、店は少しずつ客を増やしていった。
1969年には十三本店を構え、法人化して社長に就いた。あだ名が看板になり、その看板どおりに信念を曲げなかった。店名と経営姿勢がひとつに重なる、珍しい創業者だ。
全国およそ80店へ 屋敷を生かした和食チェーン
前身の小嶋商事は、やがて社名をがんこフードサービスへと変える。2024年4月には社名をGANKOに改めた。すしを軸に和食やとんかつへと業態を広げ、全国におよそ80店を展開する企業へと育つ。
特色の一つが、古い日本家屋を生かした「お屋敷」の店だ。大阪の「平野郷屋敷」は、江戸時代初期に豪商・辻元家が建てたとされる屋敷を生かした店で、歴史ある日本家屋と庭が客を迎える。由緒ある建物を壊さず、食の場としてよみがえらせる発想も小嶋さんの持ち味だった。手ごろなすし店から格式ある屋敷まで、幅広い間口が「がんこ」の顔になっていく。
店を増やすなかで、小嶋さんは人を育てることを大事にした。のちに『儲かってまっか! がんこ流人育て心得帖』という一冊もまとめ、現場で働く人をどう伸ばすかに心を砕いている。看板を全国へ広げた土台には、この人への向き合い方があった。
2005年に会長、2021年に社主へと退いてからも、育てた看板は関西の食文化に根を張り続けた。
外食の近代化と、関西経済界での役割
小嶋さんの仕事は、自社の枠にとどまらない。日本フードサービス協会の会長を務め、勘や慣習に頼りがちだった外食産業に、近代的な経営の考え方を持ち込む後押し役となる。個人店の集まりだった業界を、産業として立て直そうとした一人だ。
関西経済同友会では代表幹事も担う。大企業出身者が主流だった同会で、外食産業界からの代表幹事は小嶋さんが初めてだった。国の行財政改革の停滞を憂い、道州制の推進など地方が自立する枠組みづくりを強く訴える。府政や市政にも遠慮なく直言し続けた。大阪商工会議所の副会頭も歴任している。
地域の行事にも汗を流した。大阪の夏を飾る「なにわ淀川花火大会」では大会会長を務め、大阪最大級とされる花火を毎年の風物詩として支える一助となる。軸足はいつも大阪に置かれていた。
各界から悼む声、藍綬褒章と旭日中綬章
外食と経済界での歩みは、国からも評価された。2005年に藍綬褒章、2010年には旭日中綬章を受けている。
訃報を受け、悼む声が相次いだ。大阪商工会議所の鳥井信吾会頭は、小嶋さんを「GANKOを創業し、一代で育て上げられた立志伝中の企業家」とし、「強い信念をもって、絶え間ない挑戦と確信を続けられた人材を失い、本当に残念でならない」とコメントを寄せた。
関西経済同友会も三笠裕司、長谷川一明の両代表幹事の名で追悼の言葉を出した。「たたき上げの経営者が放つ熱は、同友会活動に新たな深みを与えた」とたたえ、その活動の根には「小嶋さんの頑固なまでの大阪への想いがある」とつづっている。
残したもの、明朗会計という信念
小嶋さんが十三の小さな店で始めた「値段を掲げる」という当たり前は、いまでは多くの飲食店に根づく。当時は無謀とも言われた一手が、業界の景色を静かに変えていった。
4坪半から始まり、全国の看板へ。頑固に貫いた明朗会計の精神は、育てた店とともにこれからも受け継がれていく。お別れの会の日程は、あらためて知らされる見通しだ。
[文/構成 by 小川 そら]






























































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