辰吉丈一郎、ちばてつやさん訃報に「ショック」 名前の由来と父・粂二さん

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ボクシング元WBC世界バンタム級王者の辰吉丈一郎(56)が10月27日、漫画家・ちばてつやさんの訃報を受けて報道各社の取材に応じ、「ショック」と胸の内を明かした。「丈一郎」の名は、『あしたのジョー』の主人公・矢吹丈から父の粂二さんが付けたもの。生前のちばさんと会ったことはないが、作品は少年時代から読み続けてきたという。
知人から聞いた訃報、「当然、読んでいた」
『あしたのジョー』『おれは鉄兵』などで知られ、漫画家として初めて文化勲章を受けたちばてつやさんが、10月22日に87歳で亡くなった。講談社は公式サイトで、ちばさんが同日18時に都内の病院で亡くなったと伝えている。訃報が公になったのは10月27日だった。
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辰吉は、その10月27日に知人から訃報を聞いた。同じ日に応じた電話取材では「知り合いから聞いて知った」と経緯を話し、ちばさんとは会ったことがないと明かしている。それでも作品は、当然のように読んでいた。父の粂二さんが単行本を全巻持っていたからだ。
「矢吹丈の減量しているところや、ハングリーさ、そういったところは参考になった」
大半のシーンを覚えているだけに、1つを挙げるのは難しいという。作品はボクシング漫画として読んでいたと語る。ちばさんの作品は、あしたのジョーだけではない。辰吉も「いろんな作品を残された」と話し、あしたのジョーのファンは昭和の世代を中心にたくさんいるだろうと思いを寄せた。ちばさんには、こう言葉を送った。「亡くなられて残念。今まで数々の作品を残してこられて、ありがとうございましたと言いたい」。
死因は骨髄異形成症候群だったと、10月27日に報じられた。
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「丈一郎」は矢吹丈から、父・粂二さんの命名
『あしたのジョー』の連載が「週刊少年マガジン」で始まったのは1967年12月。原作は高森朝雄(梶原一騎)で、ちばさんが作画を担当した。その2年半ほど後の1970年5月15日、辰吉は岡山県倉敷市の児島で生まれる。
名付けたのは、作品のファンだった父の粂二さんだった。主人公・矢吹丈の名前から一字をとり、「丈一郎」とした。辰吉は取材に、父がどう考えたかをこう説明している。
「(父は)ジョーというのが気に入った、でもジョーだけだと(漫画と)同じになる。ウチは長男だから、丈一郎となった」
名前の由来には、小さな謎も残る。辰吉によると、自分の名前の「丈」には本当は右上に点があるという。「(粂二さんが)何で点をつけたかは知らんけど」と話し、父がなぜその形にしたのかは知らないままだ。
「あしたのジョーがあったから自分のボクシング人生があった」
「丈」の点の話と同じ取材で、辰吉はそう語っている。人生の出発点に、名前と漫画の両方があったことになる。
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父の手で育ち、15歳で大阪へ 1999年に粂二さんが死去
辰吉は父の手で育てられた。粂二さんは自分の名前を好んでおらず、息子にはかっこいい名前を付けたかったらしい、と辰吉が以前に語ったこともある。
漫画は全巻、倉敷市の実家にそろっていた。辰吉は5、6歳のころから、せりふの意味が分からないまま絵だけを追って読み始めたという。少年時代に初めて読み、プロデビューした後も、世界王者になってからも読み返した。自宅の本棚には今も全巻が並ぶ。
ボクシングとの出会いにも、粂二さんがいた。着古した服を縫い合わせて父が作ったグローブをはめ、父が体を鍛えるために置いていたサンドバッグをたたくところから、辰吉のボクシングは始まる。
1986年、中学を卒業すると単身で大阪へ出て、大阪帝拳ジムに入門した。15歳での旅立ち。その姿は、東京の日雇い労働者が住む街に流れ着き、そこからはい上がっていく矢吹丈と重ねて語られてきた。
粂二さんが亡くなったのは1999年1月31日。52歳だった。辰吉が1998年12月29日の3度目の防衛戦でウィラポン・ナコンルアンプロモーション(タイ)に6回で敗れ、王座を失ってから約1カ月後のことになる。
学んだのは減量と左ジャブ、8戦目で世界の頂点へ
作品から何を受け取ったのか。
辰吉が真っ先に挙げるのは、減量のつらさだった。力石徹も矢吹丈も、どのボクサーも減量に苦しむ。90年代に自身が経験した減量と比べても、作中の当時の減量は飲まず食わずで、苦しい表現もあったと話している。辰吉自身は、力石ほどの過酷な減量はしなかった。それでも普段から節制し、脂肪をそぎ落とした体から、さらに7〜8キロを落としてリングに上がっていたという。作品そのものについては「あしたのジョーは、ボクシングというよりも、心境。(主人公が)はい上がっていく物語が主に描かれていたと思う」と受け止めている。
もう1つが左ジャブだ。作中でトレーナーの丹下段平がジョーに教えたことを、辰吉は大阪帝拳ジムに入門したときのトレーナー、西原健司からも大事なこととして教わった。「丹下段平も教えた。左が打てなければ何もできんと」。左ジャブで相手を惑わせ、ダメージを積み重ねてからKOにつなげる。それが辰吉のボクシングだった。
プロデビューは1989年9月29日。デビューからわずか8戦目の1991年9月19日、WBC世界バンタム級王者グレグ・リチャードソン(米国)を10回TKOで破り、世界王座についた。当時の日本選手で最速の記録だった。主な歩みは次のとおり。
| 年月日 | 出来事 |
|---|---|
| 1989年9月29日 | 大阪帝拳ジムからプロデビュー |
| 1991年9月19日 | リチャードソンに10回TKO勝ち、 |
| 1992年9月17日 | 初防衛戦でビクトル・ |
| 1993年7月22日 | ラバナレスとの再戦に判定勝ち、 |
| 1994年12月4日 | 正規王者・ |
| 1997年11月22日 | シリモンコン・ |
| 1998年12月29日 | 3度目の防衛戦でウィラポンに6回で敗れ、 |
プロでの戦績は28戦20勝(14KO)7敗1分け。1993年には網膜剥離で王座を返上し、引退の危機にも立たされた。日本ボクシングコミッション(JBC)は1994年8月、1度でも敗れて王座を失うか、目の病気が再発すれば引退という条件付きで、辰吉に限って国内での復帰を特例で認めている。その後も海外で再起戦を重ね、そのたびにリングへ戻った。世界王座へ3度上り詰めた歩みが、「浪速のジョー」の愛称とともに語り継がれる。
ちばさんの訃報には、ほかのボクシング関係者も反応した。元世界スーパーライト級王者の浜田剛史は、手にタオルを巻いて作中のクロスカウンターを練習したものの、なかなかうまくいかなかったと明かし、ボクシングへの愛情が深く研究熱心な人だったと、ちばさんをしのんでいる。
「浪速ではない」岡山生まれの元王者と、本棚の『あしたのジョー』
その愛称について、辰吉は今回の取材でも、大阪に住んではいるが出身は岡山で、浪速の人間ではないと話している。15歳で岡山を出てから40年余り。名前を付けた父も、名前のもとになった漫画を描いた人も、いまはもういない。
次男の寿以輝(30)は大阪帝拳ジムに所属する現役のプロボクサーだ。粂二さんが矢吹丈から付けた「丈」の一字から始まったボクシングの物語は、粂二さんの孫の代まで続いている。
ちばさんとは一度も会うことがなかった。それでも辰吉は、折に触れて本棚から『あしたのジョー』を引っ張り出し、読み返してきた。辰吉がちばさんに送った言葉は「ありがとうございました」。少年時代から読み継いだ作品への感謝だった。
[文/構成 by スポーツ担当ライター 久遠(KUON)]












































































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