宇佐美彰朗さんが83歳で死去 旧吉田町(現燕市)生まれ、五輪マラソン3大会連続出場の経歴

時間がない人向けの30秒で理解ゾーン
男子マラソンで1968年メキシコ、1972年ミュンヘン、1976年モントリオールと五輪3大会に続けて出場した宇佐美彰朗(うさみ・あきお)さんが、2026年10月26日にがんのため亡くなった。83歳だった。新潟県西蒲原郡吉田町(現・燕市)の出身で、新潟県立巻高等学校から日本大学へ進んだ。引退後は東海大学体育学部の教授を務め、同大学の名誉教授だった。
東海大学が10月28日に公表、告別式は11月4日
宇佐美さんの死去は、名誉教授を務めていた東海大学が10月28日に明らかにした。死因はがんと報じられている。
告別式は11月4日午前10時から、東京都渋谷区西原の代々幡斎場で営まれる。喪主は長男の博基(ひろき)さんだ。
1943年5月31日生まれ。日本大学の学生だった1960年代に箱根駅伝で名を上げ、卒業後はマラソンで日本の第一人者の一人になった。現役を退いた後は研究者・指導者として大学で教え、晩年は出身地・燕市のPR大使として地元の子どもや市民ランナーとも関わり続けた。
中学はバスケ、高校はテニス 陸上は大学から
旧吉田町で9人きょうだいの三男として生まれた。吉田町は2006年に燕市・分水町と合併し、現在は燕市の一部になっている。地元の吉田中学校ではバスケットボール部、新潟県立巻高等学校では軟式テニス部に入り、高校までは陸上部に所属していなかった。
本格的に走り始めたのは日本大学に進んでからだ。2年生のときに頭角を現し、箱根駅伝には3度出場している。3年生で迎えた1965年の第41回大会では9区で区間賞を取り、日本大学の総合優勝に貢献した。
大学を卒業した後はリッカーに進んだ。その後は日本大学大学院で体育学を学び、選手として走りながら研究の道にも足を踏み入れる。陸上部に入ってから五輪代表になるまで、わずか数年。大学で競技を始めた選手が、日本のマラソンの先頭集団に加わっていった。
五輪3大会の順位と記録
最初の五輪は1968年のメキシコシティー大会だった。標高2000メートルを超える高地でのレースで、9位に入った。続く1972年のミュンヘン大会では12位、1976年のモントリオール大会では32位となり、3大会連続で日本代表として五輪のマラソンを走った。ミュンヘン大会では男子10000メートルにも出場し、予選で敗退している。
| 大会 | 順位 | 記録 |
|---|---|---|
| 1968年メキシコシティー | 9位 | 2時間28分06秒 |
| 1972年ミュンヘン | 12位 | 2時間18分58秒 |
| 1976年モントリオール | 32位 | 2時間22分29秒 |
メキシコ大会で優勝したのはエチオピアのマモ・ウォルデで、日本の君原健二が銀メダルを取った。ミュンヘン大会は米国のフランク・ショーターが制し、日本勢では君原が5位に入った。1976年のモントリオール大会は東ドイツのワルデマール・チェルピンスキーが優勝した。日本の男子マラソン代表は各大会3人ずつで、君原は1968年と1972年、宗茂は1976年に出場している。この3大会すべてを走った日本選手は宇佐美さんだけだった。
自己記録2時間10分37秒8は当時の日本最高
選手として最も充実していたのは1970年から1971年にかけてだ。この時期、福岡やアテネなどの国際レースで4連勝している。1970年の世界の男子マラソンを順位付けした米国の陸上専門誌のランキングでは、英国のロン・ヒルに次ぐ2位に入った。海外のトップ選手と同じ土俵で評価されるところまで来ていた。
中でも1970年12月6日の国際マラソン選手権(現・福岡国際マラソン)は、宇佐美さんの代表的なレースになった。記録は2時間10分37秒8。佐々木精一郎が1967年に出した2時間11分17秒0を上回る当時の日本最高記録で、2位の米国のケニー・ムーアにはおよそ1分の差をつけた。世界の歴代でも当時3番目に速いランナーとなり、この記録が生涯の自己ベストになる。2位のムーアも、2年後のミュンヘン大会で4位に入る実力者だった。燕市はPR大使任命の際の紹介でも、この第24回福岡国際マラソン選手権大会での記録を「当時日本最高記録、世界歴代3位」と記している。
選手生活の間には、当時の西ドイツ・ケルンのスポーツ大学への留学も経験した。研究と競技を並行させながら、1976年のモントリオール大会でも代表の座をつかむ。3度目の五輪で、30歳を超えてからの出場だった。
東海大学で教え、学生トライアスロンや盲人マラソンにも関わる
研究者としては、日本大学の講師、東海大学体育学部の助教授を経て、1992年に同学部の教授に就いた。2009年に名誉教授となる。在職中は東海大学陸上競技部の指導にも携わり、マラソンに関する著書も出している。
大学の外での役職も多い。日本陸上競技連盟の強化委員、日本盲人マラソン協会の理事、日本学生トライアスロン連合の理事・会長、スポーツボランティアに関わるNPO法人の理事長などを務め、競技の普及や市民スポーツの支援に長く関わった。
燕市PR大使として地元の子どもたちへ
故郷の燕市とのつながりは晩年まで続いた。燕市は2018年10月30日、宇佐美さんを6人目の「燕市PR大使」に任命すると発表した。任命式は同年11月11日に信濃川河川事務所大河津出張所で開く予定とし、式の後には燕さくらマラソン大会のプレイベントとして、宇佐美さんが講師を務めるランニングクリニックを組んだ。
クリニックの内容は、マラソンを効率よく走るペース配分やフォーム、体のケア、ストレッチ体操など。大河津分水さくら公園を含む大会コースの一部を使い、初心者から記録を狙う市民ランナーまでを対象にした。宇佐美さんは翌2019年の燕さくらマラソン大会のPRアンバサダーにも就いていた。
2024年5月31日、燕市は、宇佐美さんがオリンピック出場記念や各地のマラソン大会で受けたトロフィーやカップを市に寄贈すると発表した。6月3日に燕市立燕北中学校と、宇佐美さんが通った燕市立吉田中学校の体育館で贈呈式を開く予定とし、贈られたトロフィーは市内の全14小学校、全5中学校と、燕市体育センターなど4つのスポーツ施設で展示するとした。子どもたちがスポーツに挑戦するきっかけにしたいというのが、市の説明だった。
中学ではバスケットボール、高校ではテニスに打ち込み、大学で初めて陸上部に入った。そこから3度の五輪を走った宇佐美さんの歩みは、トロフィーとともに故郷の学校へ託された。
[文/構成 by MediaDogs編集部]











































































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