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鈴木敏文さん死去、93歳 ジャーナリスト志望だった青年が”コンビニの父”になるまでの経歴を辿る「すべては偶然の連続だった」

鈴木敏文さん死去、93歳 ジャーナリスト志望だった青年が”コンビニの父”になるまでの経歴を辿る「すべては偶然の連続だった」

時間がない人向けの30秒で理解ゾーン

セブン&アイ・ホールディングス名誉顧問の鈴木敏文さんが5月18日、心不全のため93歳で死去した。長野県の旧家に生まれ、ジャーナリストを目指した青年が3つの「偶然」を経て日本初の本格コンビニチェーンを立ち上げる。「赤飯にダメ出し」「入院中もセブンの棚に激怒」「晩年はセルフレジに四苦八苦」──知られざるエピソードとともに、93年の軌跡を辿る。

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5月18日、心不全で急逝。葬儀は近親者のみで

鈴木敏文(93)=セブン&アイ・ホールディングス名誉顧問=が5月18日、心不全のため死去した。長野県埴科郡坂城町出身。同社が25日に公式発表し、葬儀は近親者のみで執り行った。後日お別れの会を開く予定だ。

1932年12月1日、千曲川が流れる坂城町に生まれる。鈴木家は15代続く地主の家系で、築200年超の茅葺き屋根の母屋には土蔵に槍や鎧まで残る旧家だった。父は農協の組合長や町長を務めた地元の名士。両親の9番目の子として生まれた末っ子が、のちに日本人の日常を変えることになる。

中学1年で敗戦を経験し、「勝つと信じていた世界が玉音放送の1日で覆った」原体験が、生涯の座右の銘「変化対応」の原点となった。

志望した出版社が採用取りやめ 偶然が重なったジャーナリスト志望の青年

鈴木さんは生前、自身のキャリアをこう振り返っていた。「すべては偶然の連続だった」。大げさな言葉ではない。

1956年、中央大学経済学部を卒業。志望していた出版社がその年に限って新卒採用を取りやめていた。やむなく書籍取次の東京出版販売(現・トーハン)に入社する。

ただの回り道では終わらなかった。社内の広報誌『新刊ニュース』の編集を任されると、無料配布で5,000部だった冊子に人気作家のエッセイを載せ、有料化に転換。上司の反対を押し切って発行部数を13万部まで伸ばしてみせた。ジャーナリストにはなれなかったが、「人が読みたいものは何か」を突き詰める力はこの時期に鍛えられている。

転職も偶然だった。トーハン在職中にたまたま訪ねた会社で「うちに来ればやりたいことをやらせてあげる」と誘われ、1963年、31歳でヨーカ堂(現・イトーヨーカ堂)に移る。当時はまだ5店舗ほどの中堅スーパーだった。本人いわく「実は知人と起業するためのスポンサー探しだったのに、入ったら人手が欲しかっただけで話は立ち消え」。反対を押し切った転職だけに辞めるわけにもいかず、目の前の仕事に打ち込んだ。

バスの休憩でたまたま入った店が、日本のコンビニを生んだ

3度目の偶然は1970年代初め、アメリカ出張中に訪れた。長距離バスの休憩でたまたま立ち寄ったのが米国のセブン-イレブンだった。「これを日本でやれないか」。帰国後すぐに構想を練り始める。

社内外の反応は冷たかった。大型店の拡大に注力していたイトーヨーカ堂では「小さな店で利益が出るわけがない」と猛反発。米サウスランド社の社外取締役だったハーバード大教授でさえ「コンビニは米国でも将来がない」と一蹴した。

しかし鈴木には独自の確信があった。「何かを提案して反対されると、これはやる価値がある、成功すると考える。みんなが賛成することは誰でも思いつくから、大して成功しない」。

1973年にヨークセブン(現・セブン-イレブン・ジャパン)を設立。翌1974年5月、東京・豊洲に1号店をオープンさせた。フランチャイズ1号のオーナーは地元の酒屋の主人・山本憲司氏。2016年、鈴木の退任が決まった株主総会で、高齢の山本氏がマイクの前に立ち涙ながらに感謝を述べたエピソードはいまも語り継がれている。

翌年には24時間営業を開始。「深夜に開けても売れるわけがない」と笑われたが、わずか2年で100店舗を突破した。

POSシステムからセブン銀行まで、「変化への対応」を貫いた40年

1978年にセブン-イレブン・ジャパン社長に就任した鈴木は、「業界の常識」を次々と壊していく。

1982年にPOSシステムを本格導入。レジの打ち間違い防止が主目的だった当時の常識を覆し、購買データをマーケティングに直結させた世界初の試みだった。新任の社長が「これで売れ筋がわかりますね」と喜ぶと、鈴木はこう返した。「売れ筋を見るな。死に筋を見ろ」。売れていない商品を棚から外し、仮説に基づく新商品を並べる──この「仮説検証型経営」がセブンの競争力の源泉となった。

商品へのこだわりは異常なほどだった。開発チームが差し出した赤飯おにぎりを一口食べ、「これは赤飯ではない」と一言。鶴の一声で製造工程が根本から見直された。休日も自宅近くのセブンで弁当を買い、自分の舌でチェックし続けた。

1991年には経営破綻した米サウスランド社の経営権を取得。かつて技術を借りた「先生」を「生徒」が買収するという逆転劇だった。2001年にはアイワイバンク銀行(現・セブン銀行)を設立し、コンビニ内に24時間ATMを配置。「素人が銀行をやっても無理」という声をまたも退けた。

2005年、持ち株会社セブン&アイ・ホールディングスを設立し会長兼CEOに就任。食品スーパー、百貨店、外食、金融を含む国内屈指の流通グループを形成した。国内セブンイレブンは現在約2万2千店に達している。

「信任されていない」 2016年の退任と93年の生涯

終幕は社内人事をめぐる衝突だった。2016年、セブン-イレブン・ジャパン社長の交代案を取締役会に諮ったところ、賛成7票、反対6票、白票2票で否決。鈴木は同日の会見でこう述べた。

「反対票が社内から出るようなら、票数に関係なく、もはや信任されていない」

同年5月、名誉顧問に就いた。創業家との確執や世襲をめぐる批判もあり、「晩節を汚した」との声も出た。

しかし引退後もセブンへの執着は変わらなかった。入院中、病院1階のセブンイレブンに足を運んでは「機会ロスがひどい」と激怒した逸話が元幹部の間で語り継がれている。晩年も週末に自宅近くのセブンを訪れて棚をチェックしていたが、会計ではセルフレジの操作に四苦八苦していたという。自らが築いた「便利さの象徴」に戸惑う創業者──皮肉だが、どこか微笑ましい光景だ。

勲一等瑞宝章、藍綬褒章を受章。坂城町名誉町民。生前、鈴木はこんな言葉を遺している。

「セブンイレブンを始めた頃は、モノもカネもなければ、何の経験もなかった。だから、知恵を出さざるをえなかった」

全国2万2千の店舗で、今日もおにぎりが並び、ATMが動いている。その「当たり前」の原点にいた男が、93年の生涯を閉じた。

[文/構成 by さとう つづり]

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