佐藤愛子さんの娘・杉山響子が明かす母の素顔「母が法律だった」離婚・借金・認知症…それでも断ち切れなかった102年の絆とは

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作家・佐藤愛子さんの娘で小説家の杉山響子氏(65)は、母の素顔を「母が法律だった」と表現してきた。離婚、元夫の巨額借金、そして晩年の認知症——それでも母娘の絆は102年の生涯を通じて変わらず、響子氏は介護しながら母との記憶を書き残し続けた。
※佐藤愛子さんは 2026年4月29日、老衰のため都内の施設で逝去したことを小学館が5月15日に発表した。この記事は佐藤愛子さんの生前に、娘の杉山氏の著書やインタビューをもとに記載している記事となります。
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「母は自分の考えを疑わない」——響子が語った佐藤愛子の日常
「母が法律だった」。そう言い切る娘の言葉は、諦めより受容に近い。
小説家・杉山響子氏(65)=東京都出身=は、作家・佐藤愛子さんの一人娘だ。1960年生まれ、玉川大学卒。小説家、エッセイスト、脚本家として活動し、2026年1月には母の晩年を描いたエッセイ『憤怒の人 母・佐藤愛子のカケラ』(小学館)を上梓した。の人」(小学館)を上梓した。
著書の中で響子氏が繰り返すのは、「母は自分の考えを疑わない人」という観察だ。「行き当たりばったりで、深みがあるようでない。そういう人だから、いろいろ言ったところでしょうがないと諦めてる」。文藝春秋の「ぼけていく私」(2026年4月)所収の対談でそう語った。
エピソードには事欠かない。響子氏が8歳のとき、突然サンタクロースが来なくなった。理由を問うと、母から「大人になったってことでしょ」と一言で返された。後になって佐藤氏は「忙しかったか買い忘れただけ」と振り返っている。
「コスプレ年賀状」も家族の伝統だった。孫が1歳の時から20年にわたって続けた企画で、響子氏がヘアメイクと撮影を担当し、佐藤氏と孫が扮装する。映画「九十歳。何がめでたい」(2024年)でも描かれたこの習慣には、笑いに価値を置く一家の流儀が滲む。
「おもしろいことに本気で取り組まないと怒る」。そんな家庭内の掟もあった。支配的だが愛情はある。諦めているが離れない。響子氏の語り口には、母との独特の距離感が貫かれている。
「すまない、会社つぶれた」——離婚と2億円の借金の始まり
響子氏が「わが家の歴史の中で一番の大事件」と記したのは、父・田畑麦彦(作家)のその一言だった。
佐藤愛子は二度の結婚を経験している。最初の夫・森川弘とは1943年に見合結婚した。陸軍に勤務していた森川は腹痛の治療で軍医からモルヒネを処方され、中毒に陥った。この問題が原因で別れ、後に死別している。二度目の夫が田畑麦彦で、この結婚が人生に最大の試練をもたらす。
田畑氏は会社を倒産させただけでなく、佐藤氏に無断で別の女性と入籍していた。それでも佐藤氏は「借金取りが来るのが面倒」という実務的な理由から、他人の夫となった男の債務を肩代わりし続けた。負債の総額は2億円以上(一説に2億4000万円)。佐藤氏が肩代わりした分だけで約3500万円に上ったとされる。
父が家を去り、母娘二人の暮らしが始まった。響子氏は幼かったが、その「大事件」の記憶は著書の核心をなす。
佐藤愛子が借金返済に使った武器は、執筆だった。1969年、夫の借金騒動を題材にした「戦いすんで日が暮れて」で直木賞を受賞。以後、ワイドショーのパネラー、全国講演、テレビ出演を「神業のような毎日」でこなし、完済に至る。 “怒り”が原動力だった、と本人は後に語っている。
「仕事を断る台本」——母と娘の共謀関係
やがて、二人の関係は奇妙な協力体制を形成する。
晩年の佐藤愛子が仕事を断る際、「血圧が200を超えた」「38度の熱が出た」などの理由を台本に書き、電話口で伝えるのが響子氏の役目だった。母の”言い訳”を忠実に代読する娘。この構図に、二人の関係が詰まっている。
響子氏は、母が仕事に没頭していた時代を「夜の気配や本を読むのが好きだった」と回想する。佐藤氏は執筆中に娘を放置したことを悔いていたが、響子氏はそれを「母の独りよがりな反省」とユーモラスに捉えた。結婚するまで「母の与える幸福と不幸以外知らなかった」とも述べている。
「単純な人だと思うんです」。響子氏のこの言葉は、突き放しとも、深い理解とも読める。
「娘か、姉か」——認知症が変えたもの、変えなかったもの
佐藤愛子の認知症は、100歳前後(2023年頃)から徐々に進行したとされる。自宅を病院と思い込み、響子氏を亡き姉・早苗と混同するようになった。
ある日、佐藤氏は響子氏を姉だと思いながら「すまないことをした」と泣いて謝った。認知症が奪ったのは記憶の精度だが、謝りたい相手がいるという感情は残っていた。
響子氏が恐れたのは、記憶を補い合える唯一の家族を失うことだった。「書き残しておかなければ」。その焦燥が「憤怒の人」の執筆を動かした。
産経新聞の報道によると、”愛子節”——独特のユーモアと毒を含んだ受け答え——は最晩年まで失われなかった。認知症でも、母は母だった。
2026年4月刊行の「ぼけていく私」(文藝春秋)では、佐藤愛子・杉山響子・孫の桃子による三世代の対談形式で、認知症の日常を笑いに変える試みが記録された。最後の著作は、母娘孫の共作になった。
書き残すことが、絆を守った
「母が法律だった」と言いながら、響子氏は母の声を書き続けた。
離婚、借金、育児との両立、認知症——それぞれの局面で、母は娘に何かを残していった。完璧な親ではなかった。しかし、響子氏が書いた記録を読む限り、その関係は憎しみより笑いで満ちている。
映画「九十歳。何がめでたい」(2024年、松竹)は佐藤愛子役を草笛光子が演じ、響子役を真矢ミキが担った。興行的にも評価を受けた作品で、三世代の日常が広く知られるきっかけになった。
響子氏は現在も小説家・エッセイストとして活動を続ける。「ぼけていく私」が2026年4月に刊行された直後のことを、各誌が追いかけている。今後の著作や手記で、母との日々がさらに語られる可能性は高い。
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102年の生涯を全力で生きた母と、その傍らで書き続けた娘。絆の形は、最後まで原稿用紙の上にあった。
[文/構成 by さとう つづり]





























































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