永井一正さん(96)死去 東京藝術大学から戦後デザイン界を牽引「札幌五輪マークの生みの親」の経歴を辿る

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日本のグラフィックデザイン界を牽引した永井一正さんが2月23日、急性呼吸不全のため96歳で死去した。1972年札幌冬季五輪のシンボルマークやアサヒビールのCIなどを手掛け、戦後日本の視覚文化の礎を築いた。晩年は動物をモチーフにした「LIFE」シリーズの制作に情熱を注ぎ、生涯現役を貫いた。
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札幌五輪マークの巨匠、逝く
1972年札幌冬季五輪のシンボルマークやアサヒビールなどの企業ロゴを手掛け、戦後日本のグラフィックデザイン界を先導したデザイナーの永井一正(ながい・かずまさ)さんが、2026年2月23日に急性呼吸不全のため死去した。96歳だった。大阪市出身。葬儀は近親者のみで執り行われた。喪主は長男でアートディレクターの一史(かずふみ)さんが務めた。後日、お別れの会を開く予定だ。
藝大中退からデザインの道へ
永井さんは1929年、大阪市に生まれた。東京藝術大学彫刻科に進学するも、眼底出血の病気により1951年に中退。その後、グラフィックデザイナーの道を歩み始めた。1960年には亀倉雄策さん、田中一光さんらと共に日本デザインセンターの創立に参加。日本のデザイン界の黎明期から中心的な役割を担うことになった。
永井さんの仕事は、日本の顔ともいえるデザインを数多く生み出した。日の丸、冬を象徴する雪の結晶、『Sapporo ’72』の表記と五輪マークを組み合わせた札幌冬季五輪のエンブレムは、その代表作だ。ほかにも沖縄国際海洋博覧会のシンボルマーク、JA(全国農業協同組合連合会)や三菱UFJフィナンシャル・グループ、東京電力、アサヒビールといった大手企業のCI(コーポレートアイデンティティ)デザインを手掛け、社会に広く浸透する視覚表現を構築した。
抽象から生命へ、作風の転換と「LIFE」に込めた哲学
1980年代後半、永井さんの作風は大きな転機を迎える。それまでの抽象的な表現から一転し、動物たちをモチーフにしたポスターシリーズ「LIFE」の制作を開始した。この変化について、永井さん自身が「これまでの自分の積み重ねを捨て去るぐらいの大きな決断であった」と語っている。このシリーズはその後40年近く続くライフワークとなった。
「LIFE」というテーマには、永井さんの個人的な体験と社会へのメッセージが込められていた。幼少期から体が弱かった自分自身を鼓舞する意味合いがあった。同時に、地球環境の悪化で生命が脅かされる現代に対し、「共生の大切さを感じてもらえばという願いを込めている」と述べている。描かれる動物たちはリアルな姿ではなく、生命の象徴としてプリミティブに表現され、生きることそのものを直接的に訴えかける力を持つ。
デザイン界からの追悼
永井さんが創立から関わり、最高顧問を務めた日本デザインセンターは訃報を公式に発表し、「永井氏の長年にわたる指導と貢献に深く感謝するとともに、その功績を永く記憶にとどめます」との追悼コメントを発表した。同氏は1975年から1986年まで同社の社長を務め、後進の育成にも尽力した。
デザイナーの原研哉さんは、2024年に永井さんの展覧会に寄せた文章で、永井さんの作品を『生命を携えて生きる人間が、勇気を持ってその歩みを進めるために眺める方位磁石のようなものだ』と評している。2013年に心臓が一度止まるという経験を乗り越え、なお創作意欲が衰えることなく、純度を増していく仕事ぶりは「もはや奇跡の領域である」と、その姿勢を称賛した。
受け継がれるデザインの遺伝子
永井さんのデザインへの情熱は、次世代にも受け継がれる。長男の一史さんもアートディレクターとして活躍し、2003年にHAKUHODO DESIGNを設立。ブランディングを中心に活動している。幼少期に父の仕事を見てデザインを意識し、高校3年で改めてデザインに目覚めたという一史さんは、世界的なデザイナーである父と「LIFE」というテーマで向き合う親子展を開催するなど、独自の挑戦を続けていた。
生涯を通じてデザインの可能性を追求し、日本の視覚文化に計り知れない影響を与えた永井一正さん。その哲学と作品は、これからも多くの人々にインスピレーションを与え続けるだろう。後日開かれるお別れの会で、改めてその功績が偲ばれることになる。
[文/構成 by さとう つづり]



























































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