「失敗なんてねえんだナ」”クマさん”こと篠原勝之さん死去に悲しみの声 テレビを去った後、奈良で開いた”空っぽ”の境地とは

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「ゲージツ家のクマさん」として親しまれた美術家の篠原勝之さんが4月17日、肺炎のため奈良市内の病院で息を引き取る。84歳だった。鉄のオブジェ制作やテレビ出演で人気を博した後、晩年は奈良へ移住し、土を捏ねて「空っぽ」の器を作る境地に達する。最期は「アバヨ」と瀟洒な言葉を残し、静かに旅立った。
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最期の言葉は「アバヨ」 奈良の病院で静かな旅立ち
4月17日、篠原勝之さんが肺炎のため奈良市内の病院で帰らぬ人となる。84歳だった。親族が25日、公式Instagramを通じて明らかにする。本人の遺志により葬儀や告別式は行わず、20日に近親者のみで見送りを済ませた。
SNSには、篠原さんが残した最後のメッセージが掲載される。「ついにね、オサラバの時が きちゃったよ」。周囲への感謝を綴り、最後は「アバヨ」と締めくくった。
鉄のゲージツ家からお茶の間の人気者へ
1942年に札幌市で生まれ、室蘭市で育つ。生後間もなくジフテリアにかかり、嗅覚と左耳の聴力を失った。武蔵野美術大を中退後、唐十郎主宰の「状況劇場」で舞台美術を手がける。1980年代からは「鉄のゲージツ家」を名乗り、巨大なオブジェを次々と生み出した。
転機となったのは、1981年に刊行したエッセイ「人生はデーヤモンド」だ。嵐山光三郎や糸井重里らとの交流から生まれたこの著作は、独特の文体で読者を魅了する。同時に、坊主頭に作務衣という風貌でテレビ番組を席巻した。「笑っていいとも!」などでタモリやビートたけしらと共演し、「クマさん」の愛称で全国的な知名度を得る。文筆家としても才能を発揮し、2015年には小説「骨風」で泉鏡花文学賞を受賞した。
母の最期から学んだ死生観
死に対する独自の死生観は、母親の最期を看取った経験が大きく影響している。ウェブメディア「ほぼ日刊イトイ新聞」の対談で、篠原さんはその時の様子を克明に語っていた。
延命処置を拒んだ母親は、最後に体中の息をすべて吐き出して逝く。その姿を見て悲しみよりも「不思議な、淡々とした感じ」を抱いた。赤ん坊が泣いて息を吸い込んで生まれるのとは対照的に、すべてを吐き出して死体になる瞬間を目の当たりにする。この経験が、後の「空っぽ」という概念につながっていった。
鉄から土へ 晩年に見出した”空っぽ”の哲学
転機は2019年に訪れる。脳梗塞で倒れたことを機に、長年扱ってきた鉄から土へと表現の素材を変えた。2021年には奈良県へ移住し、手びねりで中心に穴を開けた「空っぽ」と呼ばれる陶芸作品の制作に没頭する。
「人生も土くれと一緒でナ、わざとやったみたいな顔してりゃ、失敗なんてねえんだナ」。週刊女性PRIMEの過去のインタビューで、篠原さんは自身の創作哲学をそう語っていた。茶碗ではなくただの「空っぽ」だと笑い、手に入れた人が好きなように使えばいいと説く。意味を求めすぎる現代社会に対し、ただ生きていることの肯定を土くれに託したのだ。
型破りな生き方にSNSで広がる惜別の輪
突然の訃報に、インターネット上では驚きと悲しみが交錯した。Xでは「人生はデーヤモンドを読んで勇気をもらった」「テレビで見る豪快な姿が好きだった」といった投稿が相次ぐ。
親交のあったシス書店(LIBRAIRIE6)の公式Xアカウントは「素晴らしい生き方を見せてくれてありがとうございました」と追悼の意を表した。2025年2月にも同画廊で「花紅開宇宙」展を開催したばかりだ。型破りでありながら、どこか温かみのある人柄は、世代を超えて多くの人の記憶に刻まれている。
遺された作品が語りかけるもの
2025年春には奈良県・金峯山寺蔵王堂(国宝)で作品展「ごんげんさま」を開催し(同年5月6日まで)、逝去のわずか約1年前まで創作意欲を失わず、土と向き合い続けた軌跡を残した。
テレビの第一線から退いた後も、自身の内面と向き合い、新たな表現を模索し続けた。失ったものを嘆くのではなく、空いた穴から差し込む光をおもしろがる。その飄々とした生き様は、遺された数々の「空っぽ」な器とともに、これからも人々の心を照らし続けるだろう。
[文/構成 by たかなし もか]

























































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