織田翔希、米球界挑戦を正式表明 22日のドラフトで強行指名はあるか、大谷翔平の前例を整理

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横浜高の最速157キロ右腕・織田翔希投手(18)が10月15日、横浜市内の同校で進路会見を開き、日本のプロ野球(NPB)を経ずに米球界へ挑戦すると表明した。プロ野球志望届はすでに提出済みで、10月22日のドラフト会議で指名される可能性は制度上残る。2012年には日本ハムがメジャー志望の大谷翔平を単独1位で指名し、入団にこぎつけた。織田の会見の中身と、過去の「強行指名」の例を整理する。
「アメリカの地で挑戦することに決めました」
会見場にはテレビカメラとビデオカメラが16台並んだ。冒頭、織田は「単刀直入に」と前置きし、10月14日までのNPB球団との面談で伝えた内容を自ら明かした。
「アメリカの地で挑戦することに決めました」。最終目標に掲げたのは「世界一のピッチャー」だった。高校卒業のタイミングで海を渡る理由には「一番の困難である言葉の壁」を挙げ、若いうちから本場の英語に触れておけば、メジャーに上がったときにチームと意思疎通ができると説明した。
米国でどの道を進むかは、まだ決まっていない。マイナー契約に加え、米国の大学へ進む道も考えていると話し、どの球団を選ぶかについては、これから話しながら決めていきたいと答えるにとどめた。英語や食生活も含め、野球と生活の両面から判断するという。
NPBへの思いも隠さなかった。小さい頃はNPBに夢を持っていたと明かし、NPBを通った方がメリットは多いかもしれないと認めた上で、決め手をこう語っている。「世界一でやりたい、世界一になりたいという思いがあったので決めました」
母親からは、自分のやりたい道に進んでほしいと背中を押されたという。同席した村田浩明監督は、長い時間をかけて相談を重ね、時にはけんかしながら出した答えだと説明した。
迷いの始まりは9月のU-18
悩みが深まったのは9月だった。高校日本代表に選ばれ、台湾・台北で開かれたU-18アジア選手権で初めて日の丸を背負う。トップ選手が集まる舞台で投げ、ベンチから試合を見るうちに、さらに上の舞台を目指したいという刺激を受けたと振り返った。
高校最後の大会は青森で開かれた国民スポーツ大会だった。10月3日の1回戦では、今夏の甲子園準決勝で敗れた智弁和歌山を5-3で破り、8奪三振で完投。翌4日の準決勝で花巻東に敗れ、高校野球を終えた。報道によると、その後は渡米し、サンディエゴでパドレスとブルワーズのナ・リーグ地区シリーズを観戦したという。
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日米の球団との面談は10月7日に解禁され、織田は11日から14日までの4日間でNPB12球団と面談した。米国行きの意思は、この場で各球団に伝えている。
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1年生からベンチ入り、甲子園で156キロ
長身186センチの本格派右腕は、1年生から名門のベンチに入った。2年春の選抜では奥村頼人との二枚看板で、決勝で智弁和歌山を11-4で破って優勝する。この大会から4季連続で甲子園の土を踏んだ。
自己最速の157キロは、3年夏の神奈川大会で出した。準決勝の慶応戦で初めて計測し、7月26日の決勝・桐光学園戦でも九回に157キロを連発。130球を投げて1失点で完投し、チームを4季連続の甲子園へ導いた。
甲子園でも球速は落ちなかった。8月14日の2回戦・日南学園戦で156キロを記録する。甲子園のスコアボードに球速が表示されるようになった2004年以降、高校野球では最速の数字になった。それまでの最速は、佐藤由規(仙台育英)、安楽智大(済美)、石垣元気(健大高崎)が出した155キロ。8月18日の準々決勝では花巻東を6-0で完封し、ここでも156キロを再び計測した。チームは20日の準決勝で智弁和歌山に敗れている。
ドラフト当日の扱いは「未定」
2026年のドラフト会議は、NPBの発表どおり10月22日に東京・高輪のグランドプリンスホテル新高輪で開かれる。開始は16時50分の予定だ。
焦点は、プロ志望届を出したままの織田を指名する球団が出るかどうか。10月16日時点で、織田を指名すると公表した球団はない。報道によると、面談した12球団のうち半数は米国行きの意思が固いとみて担当スカウトだけを送った一方、幹部が直接、詳しい育成計画を説明した球団もあった。下位で指名して交渉権を確保しておく手もある、との見方も報じられている。
横浜高側は、ドラフト当日の対応はこれから詰めるとし、会見に本人が出るかどうかも分からないとしている。ある球団の幹部は、大谷の活躍でメジャーに憧れて野球を始めた世代に対し、米国に行くなとは言えないと語った。
大谷翔平の2012年、菅野智之の2011年
似た状況は14年前にもあった。花巻東の3年だった大谷翔平は、2012年9月19日にプロ志望届を出し、10月21日に同校で会見を開いてメジャー挑戦を表明する。「メジャーリーグへの憧れが強かった」と語り、多くの球団が指名を見送る方向へ動いた。
だが、日本ハムの栗山英樹監督はドラフト前日に指名を明言した。10月25日のドラフト会議で、日本ハムは公言どおり大谷を1位で指名し、他球団と競合しない単独指名だった。指名直後の大谷は、大リーグで投げたい思いは変わらないと話していた。
流れが変わったのは交渉の席だった。日本ハムは、国内プロを経ずに米球団と契約した韓国選手の例などをまとめた資料と、投打の「二刀流」で育てる計画を示す。大谷は12月9日に会見し、日本ハムへの入団を表明した。
その日本ハムは、前年の2011年にも「強行」と呼ばれる指名をしている。10月27日のドラフト会議で、巨人入りを望んでいた東海大の菅野智之を1位で入札し、巨人との抽選で交渉権を引き当てた。菅野は11月21日に入団拒否を表明して1年間の浪人を選び、翌2012年のドラフトで巨人から1位指名を受けて入団した。2つの例は結末が分かれる。
「田沢ルール」は2020年に廃止
かつてはNPBを経ずに海外へ渡る選手に、帰国後の不利益があった。2008年9月、社会人の有力投手だった田沢純一が、米球団と直接契約したいとして12球団に指名を控えるよう求めたことがきっかけになる。NPBは同年10月、ドラフト前に指名を拒んで外国球団と契約した選手について、契約終了後も高卒は3年間、大卒・社会人は2年間、12球団が指名しないと申し合わせた。
この「田沢ルール」は、独占禁止法違反の疑いで公正取引委員会の審査を受け、NPBが2020年9月に破棄した。公取委は同年11月5日に審査の終了を公表している。実際にこのルールで契約を拒まれた選手はいなかった。
織田が米国で挑戦した後に日本へ戻る場合も、こうした制限はもうない。
日本の高校から直接メジャーを目指す場合、国際アマチュアFAとして球団と交渉し、まずマイナー契約を結ぶのが一般的だ。最近では2025年1月に、桐朋高3年だった森井翔太郎がアスレチックスとマイナー契約を結んだ。花巻東から米スタンフォード大に進んだ佐々木麟太郎は、2025年秋のNPBドラフトでソフトバンクとDeNAから1位指名を受け、抽選でソフトバンクが交渉権を得ながら、2026年7月のMLBドラフトでマーリンズから8巡目指名を受けて契約している。
ドラフト会議まで1週間を切った。大谷のときのように指名に踏み切る球団が現れるのか、それとも12球団がそろって見送るのか。答えは10月22日の夕方に出る。
[文/構成 by スポーツライター 高瀬翔吾]














































































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