倉本聰さん死去、91歳 『北の国から』脚本家、死因は多臓器不全 11月3日にお別れの会

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『北の国から』『前略おふくろ様』などで知られる脚本家の倉本聰(くらもと・そう、本名・山谷馨=やまや・かおる)さんが、9月18日夕刻に多臓器不全のため北海道富良野市の自宅で亡くなった。91歳だった。倉本さんが理事長を務めていた倉本財団が9月28日に公式サイトで発表した。葬儀は近親者で済ませ、故人の遺志により11月3日に富良野演劇工場で「お別れの会」を開く予定だ。
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9月18日夕刻に自宅で死去、倉本財団が10日後に発表
倉本財団は9月28日、公式サイト「倉本聰界隈」に「倉本聰 逝去のお知らせ」を掲載した。発表文は、倉本さんが「令和8年9月18日(金)夕刻、多臓器不全のため自宅にて永眠いたしました」と伝え、「享年91でございました」と記している。死去から公表まで10日が空いた。
葬儀については「ご家族のご意向により、近親者にて執り行われました」と説明した。財団はあわせて、遺族と関係者の心情に配慮し、静かに見守ってほしいと呼びかけている。個別の問い合わせは控えるよう求めた。闘病や入院の経過について、財団の発表には記載がない。
発表文は倉本さんの仕事を「人と自然、家族、地域社会のあり方を見つめ、言葉と物語を通して多くの皆様に思いを届けてまいりました」と表した。そのうえで「倉本が遺した言葉、作品、そして大切にしてまいりました思いを、今後も受け継いでまいる所存でございます」と結んでいる。
お別れの会は11月3日(火・祝)、富良野市中御料の富良野演劇工場で開く。倉本さんが設計段階から携わり、2000年に落成した劇場だ。開始時刻などの詳細は9月29日時点で決まっておらず、財団は決まり次第、同じ公式サイトで知らせるとしている。
年齢には少し事情がある。財団の略歴によると、倉本さんが実際に生まれたのは1934年12月31日。当時の慣例で、戸籍上は1935年1月1日生まれとして届け出た。どちらの日付で数えても、9月18日時点の年齢は91歳になる。
東大からニッポン放送へ、会社に内緒で書いたドラマ
倉本さんは東京・代々木で、出版社を営む家に生まれた。東京大学文学部美学科に在学中から劇団の文芸部に入り、1958年に本名の山谷馨名義で書いたラジオドラマで脚本家としてデビューする。翌1959年に大学を卒業し、ニッポン放送に入社した。
会社員時代はラジオドラマの制作・演出を担いつつ、「倉本聰」のペンネームでテレビドラマの脚本を書き続けた。副業を禁じられていたため、会社には内緒だった。1963年、原作・脚本を手がけた日本テレビのドラマ『現代っ子』が大ヒットし、同じ年にニッポン放送を退社して独立している。
転機は1974年に訪れる。脚本を担当したNHK大河ドラマ『勝海舟』でスタッフと衝突し、札幌へ移って書き続けたものの、途中で降板した。その3年後の1977年、倉本さんは富良野に移り住む。以後、亡くなるまで富良野を拠点に書き続けた。
1981年10月、フジテレビで連続ドラマ『北の国から』が始まった。妻と別れ、東京から故郷の富良野に戻った黒板五郎(田中邦衛さん)が、長男の純(吉岡秀隆)、長女の蛍(中嶋朋子)と、電気も水道もない原野で暮らす物語だ。連続ドラマは翌1982年まで続き、その後はスペシャルドラマとして2002年の『北の国から 2002遺言』まで8作が作られた。
放送は21年に及んだ。2002年には「21年間に及ぶ前人未到の長期シリーズ」が評価され、倉本さんとフジテレビの制作出演スタッフが菊池寛賞を受けている。
富良野塾で26年、閉塾後は富良野GROUPを率いた
倉本さんは書くことと並んで、人を育てることにも力を注いだ。1984年、役者と脚本家を養成する私塾「富良野塾」を富良野市の原野に開く。前年に地元の農場から原野を借り受け、この年に第1期生を迎えた。
富良野塾は25期、26年続き、2010年に閉じた。閉塾後は、卒塾生らでつくる創作集団「富良野GROUP」を率い、作・演出を担う舞台を作り続けた。2006年には、閉鎖されたゴルフ場に木を植えて森に戻すNPO法人「C・C・C富良野自然塾」も始め、環境教育にも取り組んでいる。
晩年も筆は止まらない。2017年、テレビ朝日が新設したシニア向けの帯ドラマ枠で『やすらぎの郷』を書き、2019年からは続編『やすらぎの刻~道』を1年間にわたって放送した。2024年には約36年ぶりの劇映画として、原作・脚本を務めた『海の沈黙』(本木雅弘主演)が公開された。2025年には日本アカデミー賞の会長功労賞を受けている。
受章・受賞は数多い。1981年の映画『駅 STATION』で日本アカデミー賞最優秀脚本賞を受け、2000年に紫綬褒章、2010年に旭日小綬章を受章した。2003年には富良野市の名誉市民になっている。
主な作品は次のとおり。
| 作品 | 放送・公開 | 放送局・配給 |
|---|---|---|
| 前略おふくろ様 | 1975年〜 | 日本テレビ系 |
| 駅 STATION(映画) | 1981年 | 東宝 |
| 北の国から(連続ドラマ) | 1981年〜1982年 | フジテレビ系 |
| 北の国から(スペシャル8作) | 1983年〜2002年 | フジテレビ系 |
| 昨日、悲別で | 1984年 | 日本テレビ系 |
| ライスカレー | 1986年 | フジテレビ系 |
| 優しい時間 | 2005年 | フジテレビ系 |
| 拝啓、父上様 | 2007年 | フジテレビ系 |
| 風のガーデン | 2008年 | フジテレビ系 |
| やすらぎの郷 | 2017年 | テレビ朝日系 |
| やすらぎの刻~道 | 2019年〜2020年 | テレビ朝日系 |
| 海の沈黙(映画、原作・脚本) | 2024年 | ハピネットファントム・スタジオ |
『北の国から』『優しい時間』『風のガーデン』の3作は、いずれも富良野を舞台にしたフジテレビのドラマで、「富良野3部作」と呼ばれる。
さだまさし「大恩人でした」、吉岡秀隆は一言で
訃報が伝わった9月28日、ゆかりの深い人たちが相次いで追悼した。
『北の国から』の主題歌を手がけたさだまさしは、自身のインスタグラムに倉本さんとの2ショット写真を載せた。「せっかちで頑固で喧嘩っ早い倉本先生」と書き出し、ドラマの音楽を「若造の僕を信用して、ぽいっと全部任せて下さった侠気の人。大恩人でした」とつづっている。
さだが最後に倉本さんに会ったのは、8月9日に富良野演劇工場で開かれた『北の国から』放送開始45周年を祝う舞台だった。倉本さんはこの日、五郎の「遺言」を朗読し、あっという間に舞台から去っていったという。さだはその演出を、自分たちへの「格好良すぎる遺言でした」と表した。投稿の最後は「さようならは言いません。先生またね」だった。
純を演じた吉岡秀隆は、自身の公式サイトにコメントを掲載した。書いたのは「倉本先生と出会えたこと、神様に感謝します。」の一文だけだ。
『やすらぎの郷』と『やすらぎの刻~道』で主演した石坂浩二は、所属事務所を通じて追悼した。「世の中の価値観や流行が移り変わっても、それに合わせることなく、人間を見つめ続けていらした」。石坂はそう倉本さんの姿勢をたたえ、「その変わらない姿勢こそが、倉本さんの尊さであり、倉本さんらしさだったのだと思います」と続けた。
『海の沈黙』に主演した本木雅弘は、所属事務所を通じてコメントを出した。倉本さんについて「先生ご自身が樹木のように落ち着いた呼吸をされている印象でした」と語り、2026年2月に富良野で一緒に食事をしたことを明かしている。「時々イタズラなことを仰りながら、和やかな笑みを浮かべていたお姿が心に残っています」。
放送局も動いた。フジテレビは「当社のドラマ制作の発展に多大なご貢献をいただきました」とコメントを発表した。テレビ朝日は、倉本さんが生前に書き上げたドラマ『神様からの遺言』を2027年に放送する予定だと明らかにしている。倉本さん自身の実話をもとにした脚本家をめぐる物語で、テレビ朝日によると、本人は「これがラストメッセージだ」と話していたという。
11月3日のお別れの会の詳細は、倉本財団の公式サイトで今後発表される。
[文/構成 by エンタメライター 和泉ユウスケ]








































































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