久米宏さん(81)、元日に肺がんで逝去… 「ニュースステーション」18年半、報道番組に革命をもたらした輝かしい経歴

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フリーアナウンサーの久米宏さんが2026年1月1日、肺がんのため81歳で死去した。TBSアナウンサーとして『ザ・ベストテン』などで人気を博し、フリー転身後は『ニュースステーション』のキャスターを18年半務めた。歯に衣着せぬ語り口と「中学生にも分かる」解説で報道番組に革命をもたらし、テレビ史に大きな足跡を残した。
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久米宏さん死去、81歳 報道に変革をもたらした「ニュースステーション」の顔
フリーアナウンサーの久米宏(くめ・ひろし)さんが、2026年1月1日に肺がんのため死去していたことが1月13日、分かった。81歳だった。所属事務所の「オフィス・トゥ・ワン」が公式サイトで発表した。TBSアナウンサー時代に『ぴったし カン・カン』や『ザ・ベストテン』で軽妙な司会者として一世を風靡し、1985年からはテレビ朝日系『ニュースステーション』で18年半にわたりメインキャスターを務め、日本の報道番組の在り方を大きく変えた。
所属事務所は「弊社所属 久米宏は、令和8年1月1日、肺がんのため満81歳にて永眠いたしました。ここに謹んでご報告申し上げます」と発表。通夜および葬儀は、遺族の意向により近親者のみで執り行われたという 。
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TBS時代からフリー転身、テレビ史を彩った半世紀
ラジオで磨いた話術、人気司会者へ
久米さんは1944年7月14日、埼玉県浦和市(現さいたま市)に生まれた。早稲田大学政治経済学部を卒業後、1967年にTBSにアナウンサーとして入社。当初は演劇青年でアナウンサー志望ではなかったが、その才能はすぐに開花する。特にラジオ番組『土曜ワイドラジオTOKYO』などで頭角を現し、その軽快で知的なトークは多くのリスナーを魅了した。
テレビでは、クイズ番組『ぴったし カン・カン』(1975年〜)や、黒柳徹子さんとの名コンビで知られる音楽番組『ザ・ベストテン』(1978年〜)の司会を担当。早口ながらも聞き取りやすい進行と、時に見せるユーモアで、お茶の間の人気を不動のものとした。『ぴったし カン・カン』では第4回アノンシスト賞グランダ・プレミオ賞を受賞するなど、アナウンサーとしての実力も高く評価された。
フリー転身と「ニュースステーション」への道
人気絶頂の1979年6月、TBSを退社しフリーアナウンサーに転身。退社後も『ザ・ベストテン』などへの出演は続けたが、活動の幅をさらに広げた。日本テレビ系で『おしゃれ』(1980年〜)や、生放送の情報番組『久米宏のTVスクランブル』(1982年〜)の司会を務め、好評を博した。
この『TVスクランブル』での成功が、後のキャリアを決定づける番組へと繋がる。1984年夏頃から、制作会社オフィス・トゥー・ワンや広告代理店の電通を交え、新たなニュース番組の企画が秘密裏に進められていた。その中心にいたのが久米さんだった。そして1985年、テレビ朝日の社運を賭けたプロジェクトとして、夜10時台の大型ニュース番組『ニュースステーション』が誕生することになる。
「ニュースステーション」という革命 18年半の軌跡
「中学生にも分かるニュース」の衝撃
1985年10月7日に始まった『ニュースステーション』は、あらゆる点で革新的だった。久米さんが掲げたコンセプトは「中学生でもわかるニュース」。専門用語を避け、フリップや模型、当時最先端のCGを駆使して、政治や経済の難しい話題を分かりやすく解説する手法は、従来のニュース番組の常識を覆した。
スタジオセットも「久米宏の部屋」をイメージした都会的でおしゃれな空間が作られ、キャスターが横一列に並ぶのが常識だった時代に、出演者同士が顔を見合わせやすい「ブーメランテーブル」が採用された。これは、情報を一方的に伝えるだけでなく、視聴者との対話を意識した番組の姿勢を象徴していた。
何より大きな特徴は、久米さん自身がニュースに対して個人的な感想や意見をアドリブで語るスタイルであった。これは時に「予定された失言」とも称され、賛否両論を巻き起こしながらも、視聴者にニュースを「自分ごと」として考えさせるきっかけを与えた。
視聴率との戦い、そして時代の顔へ
鳴り物入りで始まったものの、滑り出しは順調ではなかった。夜10時台のニュース番組という形式がまだ珍しく、初週の平均視聴率は8.7%と苦戦を強いられた。
転機となったのは、海外の大きな出来事だった。1986年1月のスペースシャトル「チャレンジャー」爆発事故、続く2月のフィリピン政変を、提携するCNNの映像を駆使して詳報。これが大きな反響を呼び、視聴率は安定して2桁を記録するようになった。以降、番組は18年半で全4795回放送され、期間平均視聴率14.4%という金字塔を打ち立て、テレビ朝日の看板番組、そして「時代の顔」となった。
「物言うキャスター」の光と影
久米さんは自らのスタンスを「反政権与党」と公言し、権力におもねらない姿勢を貫いた。その舌鋒鋭い批判は多くの視聴者の支持を集めた一方で、政治家などから反発を招くことも少なくなかった。1999年には、埼玉県所沢市のダイオキシン報道をめぐり地元農家から提訴され、番組内で謝罪する事態にも至っている。
1999年10月には「契約切れ」を理由に突然の降板宣言。しかし3ヶ月後の2000年1月、「戻って来ちゃってすいません」という言葉と共に復帰した。2003年8月、「十分にやった」「スタミナ切れ」を理由に翌年春での番組終了を正式に発表。そして2004年3月26日の最終回、エンディングでビール瓶を取り出し、「じゃ、乾杯」と飲み干した後、「本当にお別れです。さようなら!」と締めくくり、18年半の歴史に幕を下ろした。この異例の幕引きは、大きな話題を呼んだ。
Nステ後も続いた探求心 ラジオ、ネット、そして社会への眼差し
『ニュースステーション』終了後も、久米さんの活動が止まることはなかった。2006年10月からは古巣であるTBSでラジオ番組『久米宏 ラジオなんですけど』を開始。約14年間にわたる長寿番組となり、2007年には第44回ギャラクシー賞のDJパーソナリティ賞を受賞するなど高い評価を得た。
2011年の東日本大震災の際には、個人で2億円を寄付し、社会への強い関心を示した。近年はインターネット番組『Kume*Net』の配信や、2023年に自叙伝『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』を出版するなど、新たなメディアでの発信も続けた。
2020年6月に『ラジオなんですけど』が終了した際には、「実質的に70年から仕事をして、ちょうど半世紀。十分やったといえばやった」と語りつつも、「これで終わりってわけじゃありませんから。またチャンスがあれば」と、生涯現役であり続ける意欲を滲ませていた。
テレビの可能性を切り拓いた「チンピラ精神」
「精神はチンピラでいようと思ってやってきた」と自らを語った久米宏さん 。その言葉通り、既存の枠組みにとらわれず、常に新しい表現を模索し続けた半世紀だった。『ザ・ベストテン』ではエンターテインメントの頂点を極め、『ニュースステーション』では報道に革命を起こした。その手法は、現在のテレビ番組制作に計り知れない影響を与えている。
権威に臆せず、視聴者と同じ目線でニュースを語り、社会に問いを投げかけ続けた「物言うキャスター」の姿は、多くの人々の記憶に刻まれ続けるだろう。テレビというメディアの可能性を信じ、その力を最大限に引き出そうとした巨星が、また一つ、静かにその役目を終えた。
[文/構成 by MEDIA DOGS編集部]













































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