野口五郎、Instagramで生家の解体を報告「業者さんが入り解体に入ります」 岐阜県美濃市出身、芸名は飛騨山脈の野口五郎岳から

時間がない人向けの30秒で理解ゾーン
歌手の野口五郎(70)が10月11日夜、自身のInstagramで生家の解体を報告した。2階建ての建物の写真を添え、「業者さんが入り解体に入ります」とつづっている。岐阜県美濃市の出身で、芸名は北アルプス(飛騨山脈)の野口五郎岳から取られた。13歳で故郷を離れてから半世紀以上がたち、生まれた家が姿を消す。
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「僕の生家が壊れかけています!!」10月11日夜の投稿
投稿は日本時間の10月11日午後11時すぎ。書き出しは「僕の生家が壊れかけています!!」だった。
続けて「業者さんが入り解体に入ります」と工事が始まることを伝え、「いつまでも思い出はそこにある訳ではないし、時は流れてるから!!」と書いている。結びの言葉は「有り難う」。ハッシュタグには「#生家」「#思い出」「#時」などを並べた。写真に写るのは2階建ての建物で、解体の時期や跡地の扱いについて、本人は触れていない。
寂しさをにじませながらも、文面は前を向く。生まれ育った家への感謝を、短い言葉で締めくくった投稿だ。
コメント欄には「寂しいですね」という書き込みが相次いだ。実家を訪ねたことのあるファンからは「お父さんと一緒にご飯を食べたり色んなお話を聞かせてもらいました」「お父様にはお世話になりました」といった思い出も届き、「写真見せてくださりありがとうございます」というコメントも寄せられている。
次の投稿で明かした「安堵の思い」
話には続きがあった。10月12日から13日へ日付が変わった直後の0時すぎ、野口は神社の石段を写した別の写真を投稿し、その中で生家に触れている。
「生家に関しては,父親が旅立った年から,僕の方から権利は離れてましたので安堵の思いです」
生家の権利は、父親が亡くなった年の時点で、すでに野口の手を離れていた。そのことを「安堵の思いです」と書いている。神社の石段の話に続けて書き添えた一文で、最後は「有り難う」と結んだ。
家族のことは、これまでもSNSやブログでたびたび発信してきた。2025年2月には、母親が2月18日に亡くなったことを自身のブログで報告している。コンサートの初日にあたる日で、知らせを受けたのは2日目の終演後だった。前日の夜、妻の三井ゆりに「もしオフクロに何かあってもコンサートが終わる迄僕に何も知らせないでくれ!」と頼んでいたことも明かしている。両親が旅立ち、生まれた家も役目を終える。
13歳の春、美濃市から上京した日
野口は1956年2月23日、岐阜県美濃市に生まれた。長良川沿いに古い町並みが残る町で、市の中心部の「うだつの上がる町並み」は1999年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選ばれた。2014年には、市内で受け継がれてきた本美濃紙の技術が「和紙:日本の手漉和紙技術」の一つとしてユネスコ無形文化遺産に登録されている。
歌手を目指して故郷を出たのは13歳の5月。旅立ちの場所は、名古屋鉄道美濃町線の美濃駅だった。のちに本人は公式ブログで、その日の光景を詳しく書いている。
同級生に書いてもらった寄せ書きには「故郷に錦をかざれ!必ず売れろ!ヒット曲出すまで美濃に帰って来ちゃダメ!」といった言葉が並んでいた。それをポケットにしまい、祖母と両親に見送られてホームに立つ。ギターケースを手に、上京する不安と故郷を離れる寂しさで涙が出そうになりながら、「ここで泣いたら歌手になれない」と自分に言い聞かせた。カメラのシャッターを押していたのは父親だった。
2年後の1971年5月1日、演歌「博多みれん」で歌手デビュー。だが、最初は思うような結果が出なかった。年齢をごまかしてキャバレーで前歌を務め、少女雑誌のファッションページでモデルのアルバイトもしたと、本人はラジオ番組で語っている。雑誌に顔が出たことでファンレターが届くようになり、スタッフから「ポップスに転向しようよ」と声がかかった。返事は「いいの? やったー!」だったという。
ポップスに転じてからは「青いリンゴ」「甘い生活」「私鉄沿線」などのヒット曲を出した。西城秀樹、郷ひろみとともに「新御三家」と呼ばれ、トップアイドルの一角を担った。
芸名の候補は「野口五郎」と「黒部五郎」
芸名の野口五郎は、北アルプス(飛騨山脈)の山、野口五郎岳から取られている。富山県と長野県の県境に連なる山で、同じ北アルプスには黒部五郎岳もある。
名前を決めたのは中学生のころだった。TOKYO FMのラジオ番組「日本郵便 SUNDAY’S POST」に出演した際、野口はその場面を明かしている。2つの山から候補が挙がり、「『野口五郎と黒部五郎とどっちがいい?』って言われまして」。当時の気持ちは「本当にショックでした」という。
それでも今は受け止め方が違う。「55年以上も通っている名前なので、ありがたいし嬉しい」と、長く呼ばれてきた名前への愛着を語った。
同じ番組では、故郷にまつわる数字の縁も話している。生年月日の昭和31年2月23日を足すと56になり、出身地の美濃市を通る国道156号線とも数字が重なる。この話に、スタジオは驚きに包まれた。
故郷・美濃市とのつながりは今も続く
美濃市との縁は、歌の形でも町に残っている。上京の場面を書いたブログは、2019年5月に旧名鉄美濃駅のポケット公園で「私鉄沿線」の歌碑の除幕式があった日のものだ。美濃町線は1999年に新関〜美濃間が廃止されたが、旧駅舎は保存され、歌碑はかつて野口が旅立ったその場所に建った。
歌碑は有志が美濃市役所に足を運んで話を進めたといい、除幕式には美濃市長や市議、観光協会の関係者が出席した。野口はブログで、有志の人たちから「歌碑が出来る迄ではなく,これからの未来にこの歌碑を保存する!」という覚悟を感じたとつづり、除幕式に参列した市長や市議、観光協会の人たちに感謝を述べている。
2026年5月1日から3日には、野口の歩みをたどる企画展が美濃市泉町の吉田工房で開かれた。レコードやポスター、写真、本人が着たステージ衣装など約400点が並んだ。表紙を飾った雑誌「明星」「平凡」や、テレビ番組「カックラキン大放送!!」の台本もあり、旧名鉄美濃駅で撮影された写真や、美濃を旅立つころの記録も紹介された。少年時代の野口を知る町で、スターになるまでの道のりを見せる展示だった。
生家はなくなっても、旅立ちの駅には歌碑が立ち、町には野口の記録が残る。「時は流れてるから」と書いた投稿には、故郷の家への別れと、そこで過ごした時間への感謝が詰まっていた。
[文/構成 by エンタメライター 真柴 ことね]














































































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