正岡子規の生誕159年、母校・松山市立番町小学校の4年生10人が絣の着物で子規にふんし道後地区をパレード

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松山市出身の俳人、正岡子規の159回目の誕生日を前にした10月12日、子規の母校、松山市立番町小学校の4年生10人が、絣(かすり)の着物を着て髪を結い、子規にふんして道後地区を練り歩いた。掛け声は子規の愛称「のぼさん」。3連休最終日でにぎわう温泉街に、子どもたちの元気な声が響く。誕生祝いの餅つきもあり、児童たちがつきたての餅を味わった。
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「のぼさん!」の掛け声で道後温泉駅から道後商店街へ
パレードは、松山市立子規記念博物館(松山市道後公園)が例年開く「-子規誕生祭-のぼさんとあそぼ秋祭り」の催しの一つで、名前は「ちびっこ”のぼさん”わいわいパレード」という。松山市の発表では、10月12日(月・祝)の午前10時20分から20分間の予定で組まれ、コースは子規記念博物館を出発し、伊予鉄道の道後温泉駅、道後商店街を通って、博物館の正面玄関前に戻る道順だった。
参加したのは番町小学校の4年生10人。絣の着物に身を包み、まげを結って、幼少期の子規になりきった。ヘチマの実がなるなか元気に登場した子どもたちは、「のぼさん!のぼさん!」と声をそろえ、3連休でにぎわう道後の町を練り歩いた。途中、子規の銅像の前では「お誕生日おめでとう」と声をかけた。
ヘチマは、子規と縁の深い植物でもある。子規は亡くなる前日に糸瓜(へちま)を詠んだ3句、いわゆる「絶筆三句」を書き残し、命日の9月19日は「糸瓜忌」とも呼ばれる。
食いしん坊だった子規に誕生祝いの餅つき
パレードを終えた”ちびっこのぼさん”たちを待っていたのは、誕生祝いの餅つきだった。市の案内では、博物館の正面玄関前が会場とされていた。子規は食いしん坊だったと伝わる。その誕生日にちなんだ催しで、子どもたちは「よいしょー、よいしょー」と掛け声を合わせて杵を振り下ろした。
つきたての餅を味わった児童からは「おいしいです」という声が上がった。児童の一人は「楽しかったしおもしろかったです」と話し、別の児童も「いっぱい声を出して楽しかったです」と笑顔を見せた。のぼさんに伝えたいことを聞かれると、返ってきた答えは「誕生日おめでとう」。市の案内では先着100人に餅を振る舞う予定とされ、訪れた人たちも、秋めく道後を楽しんでいた。
この日の秋祭りは午前10時から午後1時30分までのプログラムだった。博物館1階ロビーでは、えひめ紙芝居研究会のぼ~るによる紙芝居「正岡子規」の上演と、子規をテーマに市内の小学生、中学生、高校生から募った絵画、俳画、書道、新聞の作品展の表彰式を予定。子規のもう一つの母校、愛媛県立松山東高等学校の書道部による書道パフォーマンス、越智獅子舞保存会の獅子舞い演舞も組まれた。表彰式では、子規記念博物館の伊藤彰規館長があいさつに立つ段取りだった。
同じ12日には、すぐ近くの湯築城史跡庭園と道後公園北口周辺で、キッチンカーや手作り雑貨の店が並ぶ「湯築市」も午前10時から午後3時まで予定されていた。
10日には、子規や夏目漱石が訪れた道後温泉の旅館「ふなや」で、申し込み制の「子規さんの誕生日会席膳を楽しむ会」も組まれた。献立は、子規が随筆「仰臥漫録」に書き残した、母の八重、妹の律と誕生祝いに食べた料理をもとに、現代風に再現したものだ。
159年前の10月14日に生まれた子規
子規は1867年10月14日、旧暦では慶応3年9月17日に、現在の松山市花園町で生まれた。本名は正岡常規(つねのり)。幼いころの名は処之助(ところのすけ)で、4〜5歳ごろに升(のぼる)と改めた。この升から、地元では今も「のぼさん」と親しみを込めて呼ばれる。2026年10月14日で、生まれてからちょうど159年になる。
子規記念博物館の年譜によると、子規は1880年に松山中学校(現在の松山東高校)へ入学し、1883年に東京へ出た。俳句と短歌の革新に取り組み、1897年には俳句雑誌「ほととぎす」が創刊される。結核と脊椎カリエスに苦しみながら病床で書き続け、1902年9月19日、34歳で亡くなった。
松山とのつながりは、上京後も途切れなかった。1889年夏には、帰省した松山で河東碧梧桐にベースボールを教えている。日清戦争の取材から戻る途中で体調を崩した1895年には、松山で夏目漱石と52日間を一緒に過ごした。子規の誕生日を道後で祝う催しも、そうした古里とのつながりの上にある。
博物館は例年、この誕生日に合わせて秋祭りを開き、番町小学校の児童がのぼさん姿で道後を歩く。2024年の157回目の誕生日には、同じ10月14日に番町小の児童15人が道後商店街周辺を練り歩いた。
番町小学校は子規が学んだ勝山学校の流れをくむ
松山市二番町4丁目にある松山市立番町小学校は、県庁や市役所、銀天街、大街道に近い市中心部の学校だ。学校の沿革によると、明治5年に巽学校(大街道)、勝山学校(一番町)、智環学校(末広町)の3校がつくられ、明治18年に巽学校と智環学校が勝山学校に併せられた。1887年4月に温泉郡外側尋常小学校と名前を変え、この年を創立年としている。
子規はこの勝山学校で学んだ。学校の公式サイトでも「俳人正岡子規が学んだ学校」と紹介し、卒業生には高浜虚子や河東碧梧桐といった俳人、秋山真之らの名前も並ぶ。校内には「四季子規ひろば」と名付けた場所もある。2026年7月24日には、子規と夏目漱石が52日間を一緒に過ごした漱石の下宿「愚陀佛庵(ぐだぶつあん)」が、番町小学校の敷地の一角に再建されてオープンした。
2005年度からは松山市全域から児童を受け入れており、令和6年度に校長がまとめた実践報告では、児童の約4割が校区の外から電車やバスで通っている。同年5月時点の児童数は328人。学校は「みがく」を合言葉に掲げ、校長講話でも「本校の大先輩」として子規を取り上げてきた。
4年生の社会科では、地域の偉人として子規を取り上げて調べ学習を行ってきた。パレードに参加する4年生にとって、子規は教室で学ぶ人物であり、学校の大先輩でもある。
番町小学校は今年度、創立140周年の記念行事を進めている。9月には子どもたちが考えたロゴ入りの記念Tシャツが完成し、運動会では全校児童がそろって着る予定と学校が紹介していた。記念ソングもできあがり、12月19日には創立120周年の際に埋めたタイムカプセルの開封式も予定されている。
来年は生誕160年の節目
子規は来年2027年、生誕160年の節目を迎える。松山市はこの秋祭りを、パレードや餅つきで子規に親しむきっかけと位置づけ、例年、子規の誕生日前後に開いている。
絣の着物と結った髪で道後を歩いた10人の”のぼさん”。159年前に松山で生まれた俳人の誕生日を、母校の後輩たちが一番近くで祝った。
[文/構成 by MEDIA DOGS編集部]














































































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