浜元二徳さん死去、90歳 水俣病の語り部の会初代会長、第1次訴訟や補償交渉でリーダーの一人

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水俣病の患者で、水俣市立水俣病資料館の「語り部の会」初代会長を務めた浜元二徳(はまもと・つぎのり)さんが、2026年10月16日午前11時2分、肺炎のため熊本県水俣市の病院で亡くなった。90歳だった。1969年に始まった水俣病第1次訴訟の原告となり、原因企業チッソとの補償交渉ではリーダーの一人として動いた。1972年にはストックホルムの国連人間環境会議に出席し、半世紀以上にわたって水俣病の被害と教訓を国内外に伝えてきた。
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10月16日、水俣市の病院で死去
浜元さんは熊本県出身で、自宅は水俣市月浦。10月16日午前、水俣市内の病院で息を引き取った。死因は肺炎だった。
通夜は10月17日午後6時から、葬儀・告別式は18日午後2時半からの日程で、会場はいずれも水俣市港町の斎場「パールホールいけだ」。喪主はおいが務める。
晩年は水俣病資料館語り部の会の名誉会長だった。資料館の語り部紹介では「1936年1月生まれ」「1970年水俣病認定」と記され、語り部の活動はすでに休止していた。
両親とともに「最初の学用患者」に
浜元さんは両親とともに水俣市で漁業に従事していた。水俣病の被害は家族を襲い、両親はともに水俣病で亡くなった。浜元さん自身も同じ病に長く苦しむ。
水俣病が行政に公式確認されたのは1956年5月1日だった。環境省の環境白書によると、この年の4月、水俣市月浦地区に住む少女が手足のしびれや言葉が出ないといった重い症状でチッソ水俣工場付属病院に入院し、病院長が5月1日に水俣保健所へ報告した。原因不明の「奇病」と呼ばれた時期だ。
同じ1956年、浜元さんは両親とともに、最初の「学用患者(研究用患者)」として熊本大学の附属病院に入院した。熊本県が熊本大学に原因の研究を依頼し、究明が始まったばかりのころの出来事だった。熊本大学医学部の研究班が「水俣病の原因物質は水銀化合物特に有機水銀であろうと考えるに到った」と報告したのは、3年後の1959年7月になる。
原因が政府の見解として示されるまでには、公式確認から12年かかる。厚生省と科学技術庁が政府統一見解を発表し、チッソ水俣工場のアセトアルデヒド酢酸設備内で生成されたメチル水銀化合物が原因だと認めたのは1968年9月26日。チッソがアセトアルデヒドの製造をやめたのは、その4か月前の1968年5月だった。工場排水に含まれたメチル水銀が魚介類にたまり、それを食べた人が中毒性の神経疾患を起こす。それが水俣病だ。
第1次訴訟の原告、チッソ本社で直接交渉も
政府見解の翌年、1969年に患者と家族がチッソを相手に損害賠償を求めて熊本地裁に提訴した。水俣病第1次訴訟で、浜元さんは原告の一人となった。同じ年の12月には公害による健康被害を救済する特別措置法が施行され、法律に基づく認定制度が始まる。浜元さんが水俣病と認定されたのは1970年だった。
患者たちには苦い前例があった。1959年12月、チッソと患者の互助会の間で、いわゆる見舞金契約が結ばれていた。そこには「将来水俣病がチッソの工場排水に起因することが決定した場合においても新たな補償金の要求は一切行わないものとする」という条項まで入っていた。
裁判と並行して、患者たちは会社と直接向き合う道も選んだ。1971年には、浜元さんもチッソ東京本社での直接交渉に加わった。
1973年3月20日、熊本地裁は原因企業チッソの責任を認め、原告が勝訴した。この判決は確定している。
判決を受けて、患者側はチッソと補償の中身を詰める交渉に臨んだ。浜元さんは川本輝夫らとともに交渉に加わり、そこでもリーダーの一人として動いた。同じ1973年、原因企業と患者団体の間で補償協定が結ばれた。協定は慰謝料(一時金)、医療費、年金などの支払いを定めた。さらに、協定を結んだ後に認定された患者にも、希望すれば適用される。見舞金契約の時代とは、補償の考え方そのものが変わった。2006年の環境白書は、それまでに水俣病と認定された人は全員がこの補償協定に基づく補償を選んでいると記している。患者たちが自分の足で勝ち取った枠組みが、その後に続く人たちの補償の土台になった。
ストックホルムから世界へ、語り部の会の初代会長に
1972年6月、スウェーデンのストックホルムで第1回国連人間環境会議が開かれた。この会議に、浜元さんは坂本しのぶらとともに水俣病の患者として出席し、被害を世界に訴えた。その後も北米や東南アジアなど世界各地を回り、水俣病の被害を伝えた。カナダの先住民の水銀被害の現場も訪れている。
アジアで起きる産業公害にも目を向け、1984年にはインドネシアの水銀汚染をきっかけに「アジアと水俣を結ぶ会」を結成した。海外の公害被害者との交流は、浜元さんの活動のもう一つの柱となる。
地元での伝承にも力を注いだ。1993年1月に開館した水俣市立水俣病資料館では、患者や家族が自らの体験を来館者に話す語り部の講話が続く。1999年に語り部の会が発足すると、浜元さんは6月に初代会長に就任し、2013年3月まで務めた。会長を退いた後は名誉会長を務めた。
資料館では、患者とその家族を「語り部」、水俣病の問題に関わってきた人たちを「伝え手」と呼び、来館者に向けた講話を続けている。資料館は語り部講話の目的として、水俣病の原因や患者の苦しみ、差別や偏見、補償を求めた闘いなどを伝え、理解を深めてもらうことを挙げている。訴訟、直接交渉、補償協定、国際会議。浜元さんはそのすべてに当事者として関わり、自らの体験を語り続けた。
「水俣」の名を冠した条約へ
水俣病の名は、水銀を規制する国際的なルールにも刻まれた。2013年10月、熊本市と水俣市で開かれた外交会議で「水銀に関する水俣条約」が全会一致で採択され、2017年8月16日に発効した。条約は水銀の採掘から製品の製造、廃棄までを国際的に規制する。
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2004年10月15日には、水俣病関西訴訟の最高裁判決で、被害の拡大を防がなかった国と熊本県の責任も認められた。患者たちが声を上げ続けた先に、企業だけでなく行政の責任を問う判断が出たのだ。
1956年の公式確認から70年。被害を受けた本人として訴訟と交渉の最前線に立ち、ストックホルムの会議場にも、資料館の講話の場にも立ち続けた浜元さんが、90歳で亡くなった。資料館の語り部紹介には、10月17日時点でも名誉会長として浜元さんの名前が載っている。
[文/構成 by MediaDogs編集部]













































































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