須藤晃さん死去、74歳 尾崎豊さん・村下孝蔵さんを手がけた音楽プロデューサー

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尾崎豊さんや村下孝蔵さん、浜田省吾、玉置浩二らの作品を手がけた音楽プロデューサーの須藤晃さんが、2026年10月7日に亡くなった。74歳だった。代表取締役を務めていた株式会社カリントファクトリーが10月15日に発表した。かねて病気療養中で、通夜と葬儀は近親者のみで営まれ、後日「お別れの会」を開く予定だ。
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10月7日に死去、所属会社が15日に公表
カリントファクトリーは10月15日、「音楽プロデューサーであり、株式会社カリントファクトリー代表取締役の須藤晃(すどう あきら)が、かねてより病気療養中のところ、2026年10月7日永眠いたしました」と公表した。死因は明らかにしていない。
通夜と葬儀は、故人の生前の意向に沿って近親者のみで執り行われた。「お別れの会」の日時や会場、参加方法は今後あらためて知らせるとしている。弔電や供花、香典、手紙は辞退し、遺族への直接の連絡や弔問も控えるよう求めた。発表は「長年にわたり須藤晃の活動を支え、温かく見守ってくださった皆様に、心より御礼申し上げます」と結ばれている。
公式サイトには、須藤さんが残した作品や言葉、これまでの歩みを紹介する特設ページも設けられた。
須藤さんは1952年8月6日、富山県射水郡小杉町(現・射水市)の生まれ。誕生日を迎えて74歳になってから、2カ月ほど後の別れとなった。
東大からCBS・ソニーへ、約20年の会社員プロデューサー時代
東京大学文学部英米文学科を卒業し、1977年にCBS・ソニー(現・ソニー・ミュージックエンタテインメント)に入社した。肩書は音楽プロデューサー、作詞家、作家。会社員として約20年を過ごし、1996年に同社を退社してカリントファクトリーを立ち上げる。
手がけたアーティストは幅広い。浜田省吾、尾崎豊さん、村下孝蔵さん、玉置浩二、橘いずみ、馬場俊英、石崎ひゅーいと、世代もジャンルも異なる歌い手の制作に関わった。
なかでも名前が重なるのが尾崎豊さんだ。尾崎さんは16歳でCBS・ソニーのオーディションを受け、須藤さんが担当に付いた。1983年12月1日、シングル「15の夜」とアルバム「十七歳の地図」でデビューした尾崎さんの作品づくりに、須藤さんは長く関わる。「十七歳の地図」に続き、1985年の「回帰線」、1990年の「誕生」と、多くの作品に携わった。
須藤さんは10代の尾崎さんに、音楽の話よりも日々の暮らしについて尋ねることが多かったという。初期の詞には、人生を悟ったような硬さがあって気に入らなかったと後に書いている。尾崎さんが自分自身を見つめて言葉を書けるよう、そばで問いを投げ続けた。ボブ・ディランの詩やヘッセの小説などとともに、思想家・吉本隆明の著作を尾崎さんに薦めたのも須藤さんだった。
尾崎さんが1992年4月25日に26歳で亡くなった後も、須藤さんは尾崎さんとの日々を書き残している。著書「尾崎豊 覚え書き」(小学館文庫)は、テレビ東京のドラマ「風の少年~尾崎豊 永遠の伝説~」の原作にもなった。
「初恋」は自分の中でもベスト3に入る仕事
村下孝蔵さんとは、デビューから最後のアルバムまでほぼ20年を共にした。1983年2月に出たシングル「初恋」は大きなヒットとなり、同じ年の8月25日には「踊り子」が続く。
駆け出しのディレクターだった須藤さんは、周囲から歌詞に異論を受けても譲らず、「初恋」を自分の思うとおりに仕上げた。歌詞を何度も作り直し、村下さんにいろいろなパターンで歌ってもらいながら、正月をまたいで自宅でヘッドホンを着け、手直しを繰り返したという。デモテープは3通り作り、最後は学生服を着て歌うような、あえてアマチュアらしい歌い方を村下さんに求めた。後年のインタビューでは、数多く手がけた曲の中でも自分の中でベスト3に入る仕事だったと明かしている。
2019年に村下さんの作品集が出た際の別のインタビューでは、「村下孝蔵と言えば「初恋」だと今でも思いますね」と語っていた。村下さんは1999年に46歳で亡くなり、須藤さんは村下さんが最期まで制作を続けたアルバム「同窓會」にも関わった。
玉置浩二とは、1996年の代表曲「田園」の作詞を玉置と共同で手がけた。ドラマ「コーチ」の主題歌として流れ、今も玉置のソロを代表する一曲として歌われる。
尾崎裕哉、息子のトオミヨウが追悼
訃報を受け、尾崎豊さんの長男でシンガー・ソングライターの尾崎裕哉は、自身のインスタグラムで追悼した。「僕が音楽を志した理由は尾崎豊でしたが、音楽へ進む道を切り開いてくれたのは須藤さんでした」と書き、中学生のときに初めてのギターを持たせてもらい、高校生のときに曲の作り方を目の前で見せてもらい、大学卒業後には「尾崎裕哉」として初めてのライブを用意してもらったと振り返った。
尾崎裕哉は須藤さんを「音楽そのものを好きになるきっかけをくれた恩人です」と表し、「須藤さんが残してくれた作品と『須藤スピリット』を受け継いで、僕も歌い続けます」とつづった。
須藤さんの息子で、米津玄師やあいみょん、aikoらの作品にプロデュースやアレンジで携わってきた音楽プロデューサーのトオミヨウも、10月15日に自身のXで父の死を伝えた。父が短い間入院していたことを明かし、誰にも言わないでほしいという本人の希望で報告が突然になったことをわび、葬儀は近しい家族だけで行ったと説明している。
父との関係を、トオミヨウは「お互いを牽制しているライバルみたいな側面が強かった」と書く。そのうえで、父から多くの影響と愛を受けて今の自分があると伝えたいとし、まだ発表できない「父からの宿題」が残っていることも明かした。投稿は「僕は自分が須藤晃の息子だということを誇りに生きていこうと思います」と締めくくられている。
富山の文化振興にも力を注いだ晩年
須藤さんは音楽制作のほか、著書の執筆やラジオ番組への出演など、活動の幅を広げていった。生まれ故郷の富山県との関わりも深く、2008年に富山市政策参与に就き、2015年には公益財団法人富山市民文化事業団の芸術監督に就任した。
尾崎豊さんの没後も、その歌を伝える場に足を運び続けた。2022年には尾崎豊展のトークイベントにも参加している。尾崎さんの長男である尾崎裕哉の歩みを、デビュー前から支えたのも須藤さんだった。
1977年の入社から50年近く、東京で数々の作品を世に送り出し、晩年は地元の文化行政にも携わった。尾崎豊さん、村下孝蔵さんの歌は、須藤さんの手を経て今も聴き継がれている。
お別れの会の詳細は、カリントファクトリーが追って発表する。
[文/構成 by MediaDogs編集部]














































































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