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マーガレット・ハミルトンさん、9月30日に90歳で死去 MITでアポロ計画のソフトウェア開発チームを率いた

マーガレット・ハミルトンさん、9月30日に90歳で死去 MITでアポロ計画のソフトウェア開発チームを率いた

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アポロ計画で宇宙船に積むコンピューターのソフトウェア開発を率いた米国の計算機科学者、マーガレット・ハミルトンさんが米国時間9月30日に亡くなった。90歳だった。マサチューセッツ工科大学(MIT)が10月7日(米国時間)に発表した。ソフトウェア開発を「ソフトウェア工学」と呼んで一つの専門分野として確立させることに尽くし、1969年のアポロ11号の月面着陸を支えた人物として知られる。

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マサチューセッツ州ケンブリッジの病院で死去

MITの発表によると、ハミルトンさんは米国時間の9月30日に死去した。娘のローレン・ハミルトンはAP通信の取材に、母がマサチューセッツ州ケンブリッジの病院で亡くなったと明かしている。死因は公表されていない。

MITの航空宇宙学科は訃報の中で、ハミルトンさんをMIT計測研究所(インストゥルメンテーション・ラボ)でアポロ計画のソフトウェア工学チームを率いた計算機科学者と紹介した。遺族は娘のローレン、娘の夫、孫2人、ひ孫4人、そしてきょうだい3人。追悼式は春にケンブリッジで開く予定だという。

訃報が伝わると、米航空宇宙局(NASA)のジャレッド・アイザックマン長官はXに追悼を投稿し、ハミルトンさんを「その仕事がアポロと人類初の月への旅の実現を助けた先駆者」と呼んだ。その遺産をたたえる最良の方法は、彼女の世代が残した地点から今度こそ歩みを再開し、決して止まらずに進み続けることだとも書いている。

気象予測のプログラムから月へ

ハミルトンさんは1936年8月17日、インディアナ州パオリで生まれた。1955年にミシガン大学で数学を学び始め、のちにアーラム大学へ移って1958年に数学の学士号を取る。副専攻は哲学だった。

1959年、法科大学院に通う夫とともにボストンへ移る。MITの気象学科で臨時の職を得て、気象学者エドワード・ローレンツ教授のもとで天気予測のソフトウェアを書いた。これがプログラミングとの最初の出会いになった。ローレンツはのちにカオス理論で知られる研究者で、その論文にもハミルトンさんの仕事が生かされたとMITは記している。

1961年にはMITリンカーン研究所に移り、米国初の防空システム「SAGE(半自動式防空管制組織)」の計画に参加した。不審な航空機を探すためのコンピューター「AN/FSQ-7」の試作機向けにプログラムを書くうち、ソフトウェアの信頼性という、当時はほとんど手つかずだった問題に関心を持ち始める。

転機は1965年に訪れた。大学院への進学を考えていた矢先、夫が新聞で求人広告を見つける。MIT計測研究所が「人を月に送る」ソフトウェアの開発者を募っていた。同研究所はNASAからアポロ計画の機上飛行ソフトウェアの開発を請け負っており、ハミルトンさんは応募して採用され、MITのアポロ計画で初めての女性プログラマーになった。

最初は無人ミッション用のソフトウェアを担当し、やがて有人ミッションの機上ソフトウェアを開発するチームの責任者に昇格した。1968年には司令・機械船チームを統括する副部長となり、アポロのソフトウェアに携わる人員は400人を超えていた。

着陸直前のアラームと「優先順位」の設計

ハミルトンさんの名前が最も広く知られるのは、1969年7月のアポロ11号の月面着陸だ。

月着陸船イーグルが着陸する直前、機上のコンピューターが「1202」のアラームを出した。MITの説明では、ハードウェアのスイッチの不具合で計算の負荷が増え、複雑な着陸の手順をこなせなくなるおそれがあった。それでも着陸は止まらない。ハミルトンさんのチームは、処理を優先順位で振り分けるソフトウェアを組んでいた。重要でない裏側の処理を打ち切り、着陸に欠かせない計算を優先して続けたのだ。管制センターはこのソフトウェアを信頼して着陸を続けさせ、2人の宇宙飛行士が初めて月面に降り立った。

NASAが2003年に出した発表文も、この場面に触れている。着陸の約3分前、乗員に渡された運用手順書の誤りでスイッチが手動で入れられていたレーダーに、飛行コンピューターの優先処理を切り替えようとする命令を、ソフトウェアが退けた。その働きで「ミッションは安全に続行できた」とNASAは説明した。

アポロ11号より前にも、ソフトウェアの備えが試された場面があった。娘のローレンが4歳の頃、研究所の司令船シミュレーターで遊んでいて、飛行中の状態のまま打ち上げ前用のプログラム「P01」を起動させてしまい、シミュレーターが止まった。ハミルトンさんは同じ誤操作を防ぐ修正を提案したが、訓練を積んだ宇宙飛行士がそんなミスをするはずがないと退けられる。ところが1968年のアポロ8号で、ジム・ラベル飛行士が飛行中にP01を起動させ、航法データが消えた。チームが呼ばれて問題を解決し、その後、提案していた修正がプログラムに組み込まれた。誤りを見越して備える「防御的プログラミング」の早い例として、MITはこの出来事を紹介している。

「ソフトウェア工学」という言葉を使い始める

ハミルトンさんは、ソフトウェア開発を一つの専門分野として認めさせようと働きかけ続けた。スペイン紙エル・パイスの取材には、こう答えている。

「ソフトウェアに正当な地位を与え、それをつくる人たちがきちんと敬意を払われるように闘った。だから、ハードウェアなどほかの工学と区別するために『ソフトウェア工学』という言葉を使い始めた」

使い始めた当初は面白がられ、長く冗談の種にされたという。それでも最後は「ソフトウェアもほかの分野と同じ敬意を得た」と振り返っていた。

アポロ計画が終わりに近づくと、計測研究所はドレイパー研究所と名前を変え、1973年にMITから独立した。ハミルトンさんは1970年代半ばまで研究所で働いたあと、1976年に最初の会社ハイヤー・オーダー・ソフトウェアを設立する。1986年にはハミルトン・テクノロジーズを立ち上げ、誤りを未然に防ぐ考え方を取り入れたシステム設計言語「ユニバーサル・システムズ・ランゲージ(USL)」を主力製品にした。生涯に書いた論文などの著作は130点を超える。

勲章、写真、レゴのフィギュア

NASAがその功績を表彰したのは、アポロ11号から30年余りたった2003年だった。NASAはハミルトンさんに「特別宇宙法賞(Exceptional Space Act Award)」を贈った。推薦したNASAのポール・カート上級技術者は当時、「彼女が画期的な仕事で正式に表彰されたことが一度もないと知って驚いた」と述べ、非同期処理や優先度に基づくスケジューリングなどの考え方が、高い信頼性を求めるソフトウェア設計の土台になったと評した。

2016年11月22日には、ホワイトハウスでバラク・オバマ大統領から、米国の文民に贈られる最高位の勲章である大統領自由勲章を受けた。表彰理由には「ハミルトンはソフトウェア工学の新しい形を定め、人類の歴史を永遠に変える産業の立ち上げに貢献した」とある。

晩年は、科学技術の世界で働く女性の象徴にもなった。1969年にMITで撮られた1枚の写真がネット上で広く出回ったからだ。写真の中のハミルトンさんは、チームが書いたアポロのソフトウェアを印刷した紙の束の横に笑顔で立つ。束は高く積み上がり、チームが書いたコードの量をそのまま伝える。アポロ11号の司令船と月着陸船に積まれたソフトウェアのソースコードはコード共有サイトのGitHubでも公開され、2016年7月に大きな話題を集めた。2017年にはレゴの「Women of NASA」セットに、NASAの歴史に名を残した女性たちと並んでハミルトンさんのミニフィギュアが入った。

MITとドレイパー研究所が寄せた言葉

MIT航空宇宙学科の学科長代行を務めるオリビエ・ド・ベック教授は「マーガレット・ハミルトンを先駆者と呼ぶのも、時代の先を行っていたと言うのも、控えめすぎる」とコメントした。生まれたばかりの分野だったソフトウェア工学で自らも高度なコードを書き、チームを率いて人類が手がけた中でも指折りの複雑なシステムを築いたと功績をたたえている。

ドレイパー研究所のジェリー・ウォーレッツ社長兼CEOも「マーガレットはドレイパーに消えることのない足跡を残した。私たちは永遠に感謝する」と追悼した。

ハミルトンさん自身は2009年、MITニュースにアポロ時代をこう語っていた。「やり直しはきかなかった。私たちはそれを分かっていた」。続けて、多くの仲間が20代でこの仕事を始めたこと、ソフトウェアが謎めいた存在だったので上層部が全面的に任せてくれたことを挙げ、「振り返れば、私たちは世界でいちばん幸運な人間だった。先駆者になるしかなかった」と結んでいる。

[文/構成 by MEDIA DOGS編集部]

寄稿者

MEDIA DOGS 編集部
メディアドッグス株式会社のMEDIA DOGS 編集部チーム。インターネットマーケティングに約10年携わるメンバーで編成し、企画・取材・執筆から公開後の改善まで一貫して担当。「出会いを、設計する。」のもと、人と企業が正しく出会える場をつくるために、一次情報の確認とファクトチェックを徹底。情報をわかりやすく誠実に届け、読者の疑問を解決します。

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