元巨人の助っ人スター・クロマティ、72歳で5歳息子のパパに 「僕たちは三人で一つ」妻と歩む家族の物語

「助っ人」の概念を変えた男、クロマティとは
ウォーレン・リビングストン・クロマティ氏は、1953年9月29日にアメリカ・フロリダ州マイアミビーチで生を受けた。野球選手だった父の影響を受け、自身も野球の道へ。1973年にモントリオール・エクスポズ(現ワシントン・ナショナルズ)からドラフト1巡目で指名され、プロとしてのキャリアをスタートさせた。
メジャーリーグでは、後に殿堂入りするアンドレ・ドーソンらと共に若手外野手トリオとして注目を集め、チームの主力として活躍。しかし、1983年のシーズン終了後、30歳という選手としての全盛期に、日本のプロ野球チームである読売ジャイアンツへの移籍を決断した。当時、全盛期のアメリカ人選手が日本球界へ渡ることは稀であり、この決断は日米の野球界に驚きを与えたのである。
日本での伝説:MVP獲得と王貞治との絆
闘志あふれるプレーと輝かしい成績
クロマティ氏が日本のファンに与えたインパクトは絶大であった。来日当初こそ日本の野球への適応に苦しんだが、当時の監督であった王貞治氏の指導のもと、その才能を開花させる。闘志を前面に出したプレースタイルと勝負強い打撃で、瞬く間にチームに不可欠な存在となった。
特にキャリアの頂点となったのが1989年シーズンだ。打率.378で首位打者を獲得し、チームの日本シリーズ優勝に大きく貢献。シーズン最優秀選手(MVP)にも選出された。日本での7年間の通算成績は、打率.321、171本塁打、558打点。これらの数字は、彼が単なる「助っ人」ではなく、球史に残る偉大な打者であったことを証明している。
王監督への敬意と息子のミドルネーム
クロマティ氏の日本での物語を語る上で、王貞治氏との深い絆は欠かせない。彼は王氏を指導者として、そして一人の人間として深く尊敬していた。その敬意の大きさを示す象徴的なエピソードがある。日本在籍中に生まれた次男に、王氏の姓である「オー(Oh)」をミドルネームとして名付けたのだ。
「彼のミドルネームは、サダハル・オーに敬意を表したものです」
この事実は、クロマティ氏が日本の文化や人々に対して抱いていた深い愛情とリスペクトを物語っている。彼はただ野球をしに来たのではなく、日本という国そのものと真摯に向き合っていたのである。
突然の病魔との闘い
輝かしいキャリアから時を経て、2021年、クロマティ氏を予期せぬ試練が襲う。フロリダの自宅でクリスマスを過ごしていた際、突然足に力が入らなくなり、歩行が困難になったのだ。当初、リモート診察で「ギラン・バレー症候群」の可能性を指摘され、検査の結果、正式に診断が下された。
ギラン・バレー症候群は、主に感染症をきっかけに自身の免疫系が末梢神経を攻撃する自己免疫疾患である。クロマティ氏の場合、新型コロナウイルスに感染した直後だったが、直接的な因果関係は不明だという。さらに、治療の過程で別の問題が発覚する。背骨の神経が圧迫される「脊柱管狭窄症」も併発していたのだ。ギラン・バレー症候群は点滴治療で完治したものの、彼を長く苦しめることになったのは、この脊柱管狭窄症であった。
日本での手術とリハビリの日々
アメリカで一度手術を受けたものの、術後の痛みが引かず、クロマティ氏はセカンドオピニオンを求めて日本へ渡ることを決意する。彼が頼ったのは、元巨人の同僚である中畑清氏らの手術も手掛けた徳島大学病院の医師であった。2023年春に日本で受けた2度目の手術は成功し、術後の経過も良好だったという。
読売ジャイアンツで活躍された元プロ野球選手のクロマティさんもWHILLを利用してくださっています✨背中を痛め、先日、日本で手術を受けられて今は都内でリハビリ中だそう。「行動範囲が広がり、いろんなところへ出かけるようになった。WHILLはいろんなことを変えてくれた」とおっしゃってくれました😊 pic.twitter.com/9cRJPj2EfI
— WHILL Japan / ウィル 公式 (@WHILLJapan) July 31, 2023
現在は車いすでの生活を送りながら、再び自らの足で歩くことを目指し、懸命なリハビリに励んでいる。
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